身延の草庵
考えてみましょう。
なぜ、日蓮大聖人は身延に入山したのでしょう。
なぜ、文永11年から弘安5年までの九ヶ年、53歳より61歳の間、最後の旅に出るまで身延山に留まったのでしょう。
なぜ、わざわざ、あの、人里離れた山の中に行ったのでしょう。
うっそうとした樹林に囲まれ、半日もいれば寂しく、人が恋しくなりそうな、山の中の草庵。吹く風が梢を鳴らし、耳を澄ませば、湧き出る水の音、あまりにも静寂そのもの。ただ、何もせずに座していたら、眠くなるような、まるで遁世の地のような所。
財もなく、その頃には社会的地位も名誉もなく、権力、体制とも一切組することなく。住むには不自由をきたし、食は乏しく、衣服は古く、有るのは粗末な草庵一つ。そこは鎌倉などの町中のように、人目に触れることのない山の中。
種種御振舞御書
一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず、冬は雪深く夏は草茂り、問う人希なれば道をふみわくることかたし
庵室修復書
よるひをとぼさねども月のひかりにて聖教をよみまいらせ、われと御経をまきまいらせ候はねども、風をのづからふきかへしまいらせ候いしが、今年は十二のはしら四方にかふべをなげ、四方のかべは一そにたうれぬ、
いったい、大聖人は「世を捨てて」このような所へと去ったのでしょうか?
「立正安国論」上程を始めとした諌暁ならずして、仏国土の理想を打ち破られ、志を断ちそこへと向かったのでしょうか?
「日蓮は完敗、挫折して鎌倉から退いた」という人がいますが、その通りなのでしょうか?
答えは「否」の一文字です。
なぜならば、この草庵で著した文永、建治、弘安年間の御書、その数300余編(写本も含む)。そして同じく、曼荼羅本尊の図顕は100幅以上(御本尊集)です。身延期の御書、曼荼羅本尊はそこから未来へと流通して、今、現在の「時代の灯明」となり、私達が「自らの生を生きる糧」となっているからです。
実に、身延在住九ヶ年の御書、曼荼羅本尊が今日の私達には「生きる日蓮」と化して、そのメッセージを、励ましを、思いを、慈悲を、伝えているのです。この間、著された御書、曼荼羅本尊こそが、私達の知る日蓮像の大半を占めています。
身延の狭い草庵・・・それは後継の門下によりて「一閻浮提の広がり」を持つこととなり、身延在住の九ヶ年もまた、門下による法の久住、継承により「永遠の時」となっているのです。
一点から無限空間へ、一時から永遠へ、その「永遠の原点」こそが身延の草庵です。さすれば「九年即尽未来際」「草庵即閻浮提」でもあった、といえると思うのです。
ここで成されたこと、成就されしことが、そのまま万年救護への源流となった・・・まことに、日蓮門下と名乗る人ならば、いつ、どこにいても、心のふるさとは「日蓮大聖人在世の身延の草庵」なのでしょう。
林信男