諸の言説するところは皆実にして虚しからず~自他が目覚めの縁に

妙法蓮華経如来寿量品第十六

諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。諸の言説するところは皆実にして虚しからず。

意訳

諸々の善男子よ、仏の説く教えというものは、その全てが一切衆生を成仏得道せしめんが為なのです。ある時には仏の身・本体について久遠の成道、我本行菩薩道等を説き、ある時には他仏の姿を以て現れ、衆生の機に応じて巧みなる説法をするのです。またある時は仏の身、本体、姿で現れ慈悲を以て苦悩の衆生を救済し、ある時は他仏の姿で現れ衆生を救済するのです。更にある時は、仏自らが動き手を差し伸べて衆生を苦悩の淵から救い出し、ある時は他仏となって表れて成仏へと導くのです。このように諸々の仏として、姿形は異なっていても、その説法は皆真実であり、虚しいものは一つとしてないのです。

この「或説己身、或説他身、或示己身、或示他身、或示己事、或示他事」を基とするのが、仏教興隆期に表れた神仏習合思想の一つである本地垂迹説です。釈尊や阿弥陀如来、大日如来等を本地仏として,それら諸仏の化身が日本の地に神々として現れた権現であるという考え方です。平安時代以降、日本の神祗信仰に本地垂迹思想が導入され、仏は衆生済度の為に仮の神の姿形に変じて現れたとされるようになります。

日蓮大聖人の「諌暁八幡抄」には、本地・釈尊、垂迹・八幡大菩薩として記述されています。

法華経の第五に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護し」。経文の如くば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等、昼夜に守護すべしと見えたり。又第六の巻に云く「或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」。観音尚お三十三身を現じ・妙音又三十四身を現じ給ふ。教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや。天台云く「即ち是れ形を十界に垂れて種々の像を作す」等云云。

仏が本地であり,神がその垂迹ということですね。

さて、上記経文を日常生活に生かす私流実践としては、「私が縁する人は皆、仏の化身なのだ。仏がこの人を通して私の人間力をつけてくれている」と捉えたりしています。

職場の人間関係も、

仕事の関係者も、

家庭でも、

顔を合わせれば、他者の批判ばかりしている人でも、

「みんなが私に仏道・人間道のなんたるかを教えてくれる仏の化身なんだ」と思うと、上機嫌になってくるから不思議なものです。

今、目の前で起きた事象に、切れたり、怒ったり、むかついたり、悲しくなったり、あきれたり、投げやりになったり、開き直ったりと一喜一憂、右往左往するのは簡単、誰でもいつでもできる。もちろん心のバランスを保つ意味からも、必要な時もある。

でも、そこで止まるだけではなく、「私と相手の現在の関わりをいかにプラスのものに転じていくのか」と考え、そこに「仏教の思考」を加えることによって、両者の関係が実りあるものになっていくのではと思います。

私が縁する人達は、仏が遣わしてくれた「教えの縁、導きの縁、気づきの縁」なのでは。

このような思考を日常生活に採り入れることによって、仏道修行が特別なものではなく身近な人間道修行になってくると思うのです。

豊穣なる人間関係・・・・・

そこに仏教の思考力を、そして仏道修行=人間道修行を楽しみたいものですね。

                                    林 信男