「久遠実成釈迦如来之金剛宝座也」をめぐって

「身延の沢を罷(まか)り出で候事、面目なさ、本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還(かえ)し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進(まい)らせて、世に立て候はん事こそ詮(せん)にて候え」

原殿御返事

正応元年(1288)12月、日興上人の身延離山。

その直前の11月、日興上人が波木井実長に宛てた「与波木井実長書」という書簡があります。真偽様々な説がありますが、興味深い要素を含んでいるのではないかと思います。内容は、身延離山直前の「日興上人の身延山に対する認識」が綴られている書になっています。

正応元年(1288)11月日 「与波木井実長書」

一閻浮提之内日本国、日本国之内甲斐国、甲斐国中波木井郷久遠実成釈迦如来之金剛宝座也、天魔波旬不可悩、上行菩薩日蓮上人之御霊崛也、怨霊悪霊もなたむべし

日蓮宗宗学全書2巻p169

日蓮大聖人を上行菩薩とすることは、日蓮自らが万年救護本尊に「後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」(後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して、初めてこの大本尊を弘宣するのである)と拝する人をして信解させる書き方をしたわけですから、門下の共通認識であったことでしょう。

興味深いというのは、身延山を「久遠実成釈迦如来之金剛宝座也」としていることです。

全世界の中の日本国、日本国の中の甲斐の国、甲斐の国の中の波木井郷・身延山は「久遠実成の釈尊の金剛宝座である」というのです。この書き方というのは、「大聖人が墓所の傍らに立て置きなさいとした釈尊像のことを意味している」といういわば、「釈尊像があるから金剛宝座である」というよりも、「日蓮聖人のいました波木井郷・身延山は久遠実成の釈尊の金剛宝座であるのですよ」という「宗教的意味合いでの記述」と思われます。いわば日蓮大聖人と久遠実成の釈尊とは同列、一体、異なることはないという「日興上人の理解の一端」が表れた表現ではないかと推測します。

日興上人の「久遠実成釈迦如来之金剛宝座也」との表現は、師の大聖人が『釈迦仏の御いのちをもたす(助)けまいらせさせ給ひ』(種種物御消息)と、大聖人の命をつなぐ供養は即「法華経の御こへ(声)」を継ぎ、「釈迦仏の御いのちをもたす(助)け」るものであることを示した、即ち『日蓮のいのちは釈迦仏のいのち、釈迦仏のいのちは日蓮のいのち』と理解せしめる記述をしたことを彷彿とさせるものがあります。

「本尊問答抄」[弘安元年(1278)9月]に、

此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後、二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台・日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず、当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ。

とあるように、釈尊亡き後、一閻浮提の内に未だかつてなき曼荼羅本尊を顕したのが大聖人であり、その本尊を他の一弟子・五人(五老僧)よりも深く崇敬、伝持せんとしたのが日興上人です。ということは、日興上人は師匠の内面に迫っていた、即ち「末法万年の一切衆生を救済する本尊を顕す人こそ末法万年の教主である」と理解していたのではないかと思うのです。

                        林 信男