導師から教主への一大転換

文永8年の竜口法難を境に、後の「三沢抄」(建治4年2月23日)で「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ」と記したように、日蓮大聖人の宗教的境地が一変したことは確かでしょう。

佐渡期以降、人は一閻浮提第一の人、顕すところの曼荼羅本尊は一閻浮提に未曾有であり第一の大曼荼羅、説くところの法は一閻浮提に流布することは必定との記述が増えてきます。

「導師から教主への一大転換」と私は呼称しますが、曼荼羅讃文と書簡等の記述から確認してみましょう。

文永10年4月25日「観心本尊抄」

一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し、月支震旦に未だ此の本尊有さず

文永10年7月8日、「佐渡始顕本尊」の讃文

此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之

如来現在 猶多怨 嫉 況滅 度後 法花経弘通之故 有留難事 仏語不虚 也

文永10年8月3日「波木井三郎殿御返事」

当に知るべし、残る所の本門の教主妙法の五字、一閻浮提に流布せんこと疑ひ無き者か

文永11年5月24日「法華取要抄」

是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か

文永11年7月25日、身延山で顕した曼荼羅(13)の讃文

大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未有大曼 陀羅也得意之人察之

文永11年12月、「万年救護本尊」の讃文

大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之

系年、文永11年または建治元年とされる「聖人知三世事」

日蓮は一閻浮提第一の聖人なり

建治元年4月「法蓮抄」

此の国に大聖人有りと。又知んぬべし、彼の聖人を国主信ぜずと云ふ事を

同4月、曼荼羅(20)の讃文よりほぼ定型化

仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也

同6月10日「撰時抄」

漢土日本に智慧すぐれ・才能いみじき聖人は度度ありしかども・いまだ日蓮ほど法華経のかたうどして国土に強敵多くまうけたる者なきなり、まづ眼前の事をもつて日蓮は閻浮提第一の者としるべし

このような日蓮大聖人の高揚感あふれる教示と「自己、説示する法、顕す本尊の宗教的位置付け」に、それまでの「台密への一定の配慮、期待」からの脱却があり、それは同時に、次の時代の一切衆生への説法教化の主体は「我れと我が一門なり」との自覚が確立されたことを意味している、と拝するのです。

                         林 信男