摩訶・私感「願兼於業について」(1)

投稿者:鬼滅の言

例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし

開目抄上 御書p.203

小乗経を修業する菩薩がいる。未だに惑を断じていない身ではあるが、振り返って我が父母を見ると地獄に堕ちて苦しんでいる。その時に、つくりたくはない罪ではあるけれども、父母が地獄に墜ちたのと同じ業(行為)をそっくりそのまま実践し、願って地獄に堕ちて苦しむ。そこで父母と苦しみを分かち合い、同苦できることを喜びとする生き方がある。それを願兼於業というのである。

(意訳)

今回は「願兼於業」について、所感を述べさせていただきます。

願兼於業とは「願い業を兼ぬ」と読みます。
業とは行為のことです。

「願い業を兼ぬ」とは、その業(行為)に菩薩としての願いが込められているという意味です。

私は役職は「願兼於業」であると思っています。
その観点からこの御文を解釈します。

自身の宿命転換を願い活動している人がいる。その願いが成就した訳ではないが、振り返って我が地区を見た時に、様々な悩みや問題をかかえて苦しんでいる友がいる。その時に受けたくはない役職ではあるが、地区部長を引き受け、願って地区に飛び込む。そこで苦悩する友と苦しみを分かち合い、同苦できることを喜びとする生き方がある。それを願兼於業というのである。

「願い業を兼ぬ」

「役職・業を兼ぬ」

その役職を全うする業(行為)に同苦、さらには自身の宿命転換への願いが込められている。

地区部長は地区部長の役職を
支部長は支部長の役職を
それぞれ全うする行為(業)の中に願いが込められている!

逆に、その役職を全うしなければ個々人の宿命転換は成就しないのである!

それが役職である。

私はそう捉えています。

*余談ですが役職は同苦の範囲である!とも思います。