最澄最後の6年間と東国の道忠教団
最澄さん、元気を出しなさい。
あなたにはやることがまだまだあります。
さあ、衆生の大海原に飛び込んで、みんなを導きましょう。
と「彼ら」は呼びかけたのでしょうか。
空海から密教伝授を中断され、信頼していた弟子も空海のもとから戻らず、ややもすると山の彼方に日が沈んだような心境であったろう最澄は「彼ら」のいるところへ、東国へ、正確には関東へと歩みを進めます。(弘仁7年[816]~弘仁8年[817])
「彼ら」に引き寄せられるように東国に赴いた50歳の最澄。
そこに集った在地の人々は、「上野国(群馬県)・緑野寺で9万人」「下野国(栃木県)・小野寺で5万人」(元亨釈書)と伝わりますが目を見張るような表現はともかく、東国の多くの人々が最澄の説法を聞き、受戒し灌頂を受けたのでしょう。
振り返れば、延暦4年(785)7月17日、19歳の時に青年最澄は比叡山に入山。その時に著したと伝えられる「願文」に、「伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味も服せん。」と記しますが、東国の衆生との触れ合いの日々に最澄は「原点の時」を今再び見つめたのでしょうか。最澄の内面は大いなる変化を遂げ、帰京後は「山家学生式」を著し大乗戒壇の建立、南都僧綱の統制から離れた独自宗派の勅許を明確に求め始めるのです。最澄は若き日に南都仏教から離山し、壮年期に今度は「決別の宣言」をしたといえるでしょうか。
時を同じくして最澄と法相宗・徳一との間で日本仏教史に残る対論が始まり、三乗一乗論争(三一論争)・三一権実論争・仏性論争と呼ばれる問答は弘仁12年(821)まで続きました。多くは論争自体に焦点を当てますが、徳一の一門が坂東諸国で活発な教化活動を展開し、「彼ら」と衆生教化という布教の土壌を共通のものとしていたことも、論争に至る背景として考えたいと思います。
東国に赴いた50歳から56歳の入寂に至るまで、最澄の「最後の熱き6年間」を俯瞰するとまさに獅子奮迅の感があります。
「法華去惑」「守護国界抄」「決権実論」「法華秀句」「再生敗種義」を著して、次々と言葉の矢を徳一へ放つ。六条式・八条式・四条式の三つ(山家学生式)を続けて朝廷に上奏し、「顕戒論」三巻で南都僧綱に反駁する。
『教学、布教に秀でた徳一の言うがまま、成すがままではいけない。「彼ら」の側、衆生の側に立ち、言葉と心で守り支えるのは我が務め』
『権威権力による仏教ではない。新しき時、新しき人による、新しき展開を』
最澄の心の声が聞こえてくるような気がします。
「彼ら」との関わりが、最澄晩年の方向性に大きな影響を与えた。
「彼ら」と書きましたが、正確には道忠一門、道忠教団ともいわれる東国仏教を代表する一門です。
道忠は武蔵国出身とも伝わり、鑑真の高弟にして大乗的見地に立ち民衆を教化する菩薩行を重んじた人物でした。
延暦16年(797)、最澄の写経事業を道忠が助け、そこに道忠の弟子・法鏡行者(第二代天台座主・円澄)も加わります。
以来、両者は、正確には「西国の比叡山寺・最澄一門と東国の道忠一門」の親交は深まり、道忠一門が最澄一門の活動と展開を支え、特に天台座主を次々と輩出するのです。
道忠⇒円澄(第二代座主)
道忠⇒広智⇒円仁(第三代座主)
⇒安恵(第四代座主)
道忠⇒広智⇒徳円⇒円珍(第五代座主)
⇒惟首(第六代座主)
⇒猷憲(第七代座主)
見事なまでの比叡山寺・天台宗の「道忠教団」ぶりといえるでしょうか。
最初の写経事業からおよそ20年後の、最澄の東国巡錫。
道忠は生没年が不詳、師の鑑真は天平宝宇7年(763)年に寂ですので、最澄の身が武蔵、上野、下野に在った時、おそらく道忠は存在していなかったと思われますが、彼の愛弟子と法弟たちが最澄に仕え案内し、さらに関係が深まったのでしょう。その証が第七代に至る比叡山寺・天台宗への人材輩出ではなかったかと思うのです。
初期比叡山寺・天台教団を支えたのは武蔵、上野、下野で民衆に布教、菩薩行をなしていた東国の道忠教団であった。
この道忠教団の成立と展開はさらに調べ、考えていきたいと思います。
林 信男