日蓮によりて日本国の有無はあるべし~開目抄に込められた心

文永8年(1271)10月、佐渡へ流された日蓮大聖人。

諸宗を破折してきた大聖人に反感を持ち、亡きものにしたい、いや、それができないならば、なんとかねじ伏せたい。論破したい、やっつけたい。「佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等」(種種御振舞御書、以下同じ)は佐渡の塚原に集まり、大人数を頼んで大聖人に挑みます。(塚原問答)

ですが、その集まりは、仏教本来の成仏、救済とは無縁にして、ただ大聖人をやっつけたいとのあらぬ一念で結合しただけのもの。「相互依存と無責任の集まり」の彼方の結果は、始めから分かりきっていたというべきでしょう。

大聖人は「利剣をもてうりをきり大風の草をなびかすが如し」と一方的に諸宗の誤りを破折し、対する側は「或は悪口し、或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり」と念仏を捨てることを誓う人まで現れるという状態で、早々に決着がつきました。

この光景を見ていた佐渡の人々はどのように思ったことでしょう。

頼みの念仏僧、真言僧のふがいなさに呆れたのか、それとも法の邪正よりも「仏さまの教えを悪しざまに罵る悪僧日蓮」と、仏法の無理解に起因する悪感情によりますます反感を強めたのでしょうか。「佐渡百幅本尊」と称されるほどに大聖人が数多の曼荼羅を佐渡で顕したことからすれば、塚原問答を機縁として、大聖人とその教えに心を寄せる人が少なからず生まれたのではないかと思います。

さて、塚原より帰ろうとする人々の中に、佐渡の国の守護代・本間重連の姿を認めた大聖人は、彼を呼び止め語りかけます。

「何時、鎌倉へとのぼるのか」

「下人共に農耕させて、七月の頃ですな」

「弓矢(弓箭)を取る者は、公の一大事で活躍してこそ所領を賜るものであるのに、田畑を耕しているとはどのような料簡であろうか。今、戦が起ころうとしているのだから、急ぎ鎌倉へと打ちのぼって手柄を立てて所領を賜るべきではないか。あなたは相模の国では名のある侍なのだから、田舎で農耕をやっていて戦に間に合いませんでしたでは、恥をかくことになるであろう」

「・・・・・」

本間重連は考え込むも、他宗の僧共々いぶかりながら帰ってしまいます。

この翌月です。

塚原問答は「正月十六日」、文永9年1月16日のことでしたが、それからわずか一ヶ月後、2月11日に二月騒動が勃発し、15日には時の執権・北条時宗の異母兄である北条時輔が誅殺されてしまいます。大聖人が立正安国論で警告していた「自界叛逆難」の現実化です。

一ヶ月前に、鎌倉からはるか離れた佐渡の地で「内紛近し」を予告していたのですから、大聖人には独自の情報網があったのかもしれませんが、この角度はまた改めて考えましょう。

鎌倉と京都で北条一族の内紛が起きようとしていた頃、世の喧騒どころか北國佐渡の静けさからも隔絶したような、雪中の草庵に大聖人の身はありました。

昼夜耳に聞く者はまくら(枕)にさ(冴)ゆる風の音、朝暮に眼に遮(さえぎ)る者は遠近(おちこち)の路を埋む雪なり、現身に餓鬼道を経(へ)、寒地獄に堕ちぬ

法蓮抄

とまさに極寒地獄に落ちたような環境、大聖人と居を同じくするのはわずかな供の者、取り巻く里人は他宗の信者ばかり。

傍から見れば世から捨てられたような草庵で、大聖人は「開目抄」を書きあげました。考え書き続けて仕上がるまでに三ヶ月以上、同書の中で大聖人は堂々と宣言します。

「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし」

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ」

「詮(せん)ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」

「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」

この言葉には驚嘆せざるをえません。

あなたが布教をする故に、他宗教を批判する故に、遥か彼方の海の向こうの島に流されたらどう思いますか?どうしますか?何をするでしょうか?

普通は「なんて理不尽なことを」と、悲嘆にくれるばかりでしょう。

もちろん、今日ではこのような理由で流罪等ということはありませんが、我が身に置き換えて少し想像しただけでも、大聖人がいかに心強き人であったかが理解できることでしょう(それは「広宣流布大願」に比例したものでありましたが)。しかも、これまで皆と共々に築き上げてきた鎌倉の一門は事実上の壊滅なのです。あれも失い、これも失い、前途に希望を抱けない渦中に放り込まれる。

ところが、その心は諸難を突き抜けて、「日本国第一の富める者」「日本の柱・日本の眼目・日本の大船」と明確に「主師親」を宣言し、これより佐渡の人々に妙法を弘め曼荼羅を顕しては授与し続け、さらに「観心本尊抄」等の重書を著わすのですから、ここに「我常在此 娑婆世界 説法教化(我常に此の娑婆世界に在って説法教化す)」との、「久遠の仏を体現した姿」があるといえるのではないでしょうか。

去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり

種種御振舞御書

文永8年9月12日、竜の口で抹殺されんとした大聖人。

果たせずして佐渡へと流罪されるも、それでも大聖人の首を切ろうとの動きがあったものでしょうか。「我が命あるうちに我が真実を留めん」と著わされたのが「開目抄」上下二巻。「此の文の心は」と開目抄の心について、大聖人は語りだします。

此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければたもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなくゆめ(夢)の如くに妄語出来して此の御一門どしう(同士討)ちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、つきたる弟子等もあらぎかなと思へども力及ばざりげにてある程に

種種御振舞御書

いつ果てるかも知れぬ我がいのち。そのような極限状況下で人がものを言い、書く時は、「本当のこと」を残すものだと思いますが、大聖人はわすが一行で全てを表現します

「日蓮によって日本国の存亡が決まるのです。日蓮は日本の人々の魂なのです」

大聖人は「開目抄」に「一渧(たい)をなめて大海のしを(塩)をし(知)り・一華を見て春を推せよ」と記しましたが、今、私達もこのわずか一行に込められた「大聖人のこころ」というものに、深く思いをいたすべきではないでしょうか。

「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて」(開目抄)と、大聖人は実質的に日本国によって首を切られんとしましたが、その瞬間より、人間にして魂魄そのものですから、即ち「縦に三世、横に一閻浮提を包む教主・本仏」として内面は昇華されていたのではないかと思うのです。

そのような「雄大なる内面世界」であれば、日本という小さな島国も胸中に収まっており、大聖人が「こころで支える日本国」である故に、

日蓮によって日本国の存亡は決まるのです。譬へば、家に柱がなければ家として保つことができず、人に魂がなければ死人となるようなものです。

日蓮は日本の人々の魂なのです。

との堂々たる宣言となったのではないでしょうか。

続けて大聖人は記します。

平左衛門は既に、日本の柱である私を倒しました。

(私は倒れてはいませんが、この日本国としては、私は倒れ亡きものになっているという認識なのです)

今まさに世は乱れんとし、どこからともなく夢のようにウソがそれらしく伝わり、北条一門は同士討ちを始め、ついには他国より攻められることでしょう。そのようなことは立正安国論に詳しく記したところです。

このように書き付けて、中務三郎左衛門尉(四条金吾頼基)の使いの者に持たせました。側についている弟子達は「強く言い過ぎではないか」と思ったようですが、力及ばず止めることはできないという態でした。

日本国から放り出されて雪中にある人物が「日本国の柱、魂である」と宣言し、敢然と妙法流布を始めゆく。まさに「遊行するに畏れなきこと 師子王の如く 智慧の光明 日の照すが如くならん」(安楽行品第十四)の振る舞いですし、そこに「千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん」(開目抄)の正法の人にして、「扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ」(諌暁八幡抄)との末法の教主、主師親の姿を見るのです。

「開目抄の心」である「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」「日蓮は日本の人の魂なり」との宣言。心に刻みたい言葉ですし、それはまた人生幾山河の中での、私たちを支えてくれる励ましにもなると思うのです。

                         林 信男