本尊とは勝れたるを用うべし~人は無意識のうちに多くを本尊として生きている
「こんなことを考える私がおかしい」「私の我見だ」「私が言うことによって迷惑をかけてはいけない」「考えものを言うなんて、我の強い人がやることだ」「バカにならなきゃいけない」「何がなんでも結果が全て」「何かものを言うと恐そうだ」「余計な情報をもたらす人とは接しないようにしよう」
このような思考をもたらす「本尊」があったとしたら、拝みたいと思いますか?
見事なまでに思考を縛り付けているのですから、誤れる本尊というべきでしょう。
本尊とは何も手を合わせて拝む対象だけではなく、人の集まりである組織も、いわば本尊のようなものだと思います。
組織に信を以て接して組織から情報・伝達・打ち出しが流れ、そのまま無条件で受け入れ信じてその通りに実行する。
まさに「組織総体の見えざるいのち」が「我がいのち」と感応し、組織のいのちが我がいのちに宿っている姿です。「人間の思考の部屋」に立ち入って、その空間を一色に染める効果があるのですから、見えざる「組織本尊」といえるのではないでしょうか。そして冒頭の思考をもたらすならば、やはり「誤れる本尊」というしかありません。
畜類(キツネ、蛇、タヌキ等)を拝めば畜類のいのちが我がいのちと感応し、畜類のいのちが我がいのちに宿ります。
危険察知、危機回避、俊敏なる行動となり、商売で先手を打ったりして利益が上がり「よし!」と思うこともあるでしょうが、自己中心が強くなったり、やがては他に噛みつく=トラブルが絶えないなどの、畜生ならではのマイナス作用をもたらすでしょうし、精神衛生上もよくない方向に向かうのではないかと思います。
人の思考を縛り、停滞させ、思考から生まれるであろう可能性を無くし、思考から発せられる言葉にも罪悪感を伴わせる「見えざる力」が「組織本尊」のもたらすものであれば、当たり前のことですが「ごく普通に人間らしく自由に生きる」ためには、その本尊を拝むのをやめるか、変えるしかありません。
ましてや、組織から「あいつは悪人だ、近寄るな」と伝達されて、無条件でそのまま受け入れてしまうというのはいかがなものでしょうか。会ったことも、見たことも、聞いたこともない人物に対する認識と評価までが、組織の言うがままで、自分では何もしない。
『組織を本尊としている害毒』といわれても仕方ありません。
普通であれば、自らがなんらかの努力で、その情報の真偽を確かめるというのが道理というものでしょう。
「本尊とは勝れたるを用うべし」(本尊問答抄)
本尊とは、なにも手を合わせて拝む対象だけではなく、人は無意識のうちに多くを本尊として生きている。
日蓮大聖人の言葉は読み解くほどに、新しい気づきを与えてくれるように思うのです。