安房国清澄寺に関する一考 21
6 源頼朝・鎌倉幕府と東密
源氏と東密には深いつながりがあります。
ここでは、源頼朝挙兵にあたって、心身ともに後ろ盾となった伊豆国・走湯山(走湯権現、伊豆山権現)の成り立ちと頼朝時代のつながりを確認してみましょう。
【 走湯山縁起 】
「走湯山縁起」によれば応神天皇2年(271)4月、相模国唐濱磯部の海漕(現在の大磯)に直径三尺有余の円鏡が出現したといいます。円鏡はある夜、日輪のような光明を放ち、ある時には響声を発して琴の音曲かと聞き間違えるようでした。
近づこうとすると波が荒れて円鏡は海底に隠没し、また高峯に飛び登っては松の枝にかかり、海中に入っては波底を照らしたりします。よって時の人は円鏡を二処の日金と呼んだといいます。
応神天皇4年(273)9月、一仙童が日金山に円鏡を奉祀します。この一仙童は「開山祖師」「勧請仙人」とも呼ばれる松葉仙人であったとのこと。
推古天皇2年(594)、海岸より温泉が湧き出したことから走湯権現の神号を賜ります。文武天皇3年(699)、役小角(えんのおづの 舒明天皇6年・634~大宝元年・701)が走湯山に堂宇を建て、以後、多くの修験者が集うようになったと伝えています。
弘仁10年(819)には、東寺大和尚・空海(宝亀5年・774~承和2年・835)が来山と伝えます。承和3年(836)4月、甲斐国八代郡の人・賢安が走湯権現の霊験を得て、日金山本宮から現在地に遷座。本地仏千手観音像を造立し、仏堂を建て自ら出家します。
空海の十大弟子の一人である杲隣(ごうりん 神護景雲元年・767?~?)が伊豆国を訪れ、修善寺と走湯山を開創と伝えています(櫛田P481)。
走湯山の起源について貫達人氏は賢安の事跡を受け、論考「伊豆山神社の歴史」(三浦古文化 30号P3 京浜急行電鉄 以下、貫・伊豆山と表記)において、「伊豆山神社文書」(「県史料」所収)七号文書弘安九年(1286)十一月廿九日付、鎌倉将軍家寄進状中の「抑伊豆権現者、自承和往代祠宇祐基、」を引用、「静岡県史」の「走湯山神宮寺の創建はまず平安期承和年間(834~848)と想定して大過あるまい」との解説を紹介されています。
斉衡2年(855)、比叡山の安然(承和8年・841~?)が走湯山を訪れ、岩戸山(松岳)西谷に舎房を構えると伝えます。虚空蔵菩薩求聞持法を行ったところ、明星が井戸の中に入る瑞があり、以来、その井戸は智慧の水と呼ばれるようになりました。安然は聖教を数百巻安置し、読経修学に励んでいます。
元慶元年(877) 、安然の門弟・隆保が来山し、神勅により伽藍を建立。元慶2年(878)、堂舎を造営して12月に法華八講を始め、翌元慶3年(879)1月には、一山をあげて不断観音品読誦を行っています。延喜4年(904)2月15日には、法華長講を始めます。
賢安の代に建てられた堂閣が破損してきたため、講堂を修造して十一面観音像を安置。礼堂を造立して金剛神を二体奉安。経蔵も修造して五千余巻の聖教を奉納します。
天徳4年(960)、鐘楼を建て始め、講堂をさらに修繕し、康保2年(965)、堂宇を造り、礼堂を拡充して金色の十一面観音像一体、正観音像一体、権現像一体を安置。安和3年(970)、依智秦永時宿爾を願主、延教が勧進となって常行堂を建立。西廊に金身の仏菩薩七体を奉安、僧坊一宇を造立します。
天禄2年(971)、仏像を修復し普賢・文殊の檀像に金泥を塗り、供僧を選び法華経を誦し、懺法(せんぼう)等を修しました。天禄4年(973)から翌天延2年(974)にかけて、北条太夫平時直が願主、延教が勧進となり宝塔一基を建立。金色の五仏を安置。永観元年(983)、大門を造立し金剛力士像を安置。御祭所、礼殿、中堂を改造します。