【投書】日本アカデミー賞!

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投書者:映画が好き。   


日本アカデミー賞授賞式を観て


 過日、日本アカデミー賞授賞式の模様をTVの生放送で観た。特別観たかったわけでは無かったが、なんとなく観たのである。意外にも前評判を覆して、「新聞記者」が最優秀作品賞・最優秀主演男優賞(松坂桃李)・最優秀主演女優賞(シム・ウンギョン)の主要三部門を制した。私自身、ビックリした。映画館で「新聞記者」を観た時に、現政権批判の内容を含む点は評価したが少し暗く、映画としての評価は疑問視していたからである。


実際内容に怯えたのか、上映映画館も少なかったように思う。受賞後はいっきに上映館が増えているようである。世間とは、本当に現金なものである。まず、最優秀主演女優賞の発表の時、シム・ウンギョンさんのリアクション(本当に予想外という表情、そして涙)に感動した。この時点でも、私はあとの二つの受賞を想像していなかった。アメリカのアカデミー賞を韓国の「パラサイト」が取ったことや現状の韓国との関係を考慮された授賞なのかなぁぐらいにしか、思っていなかったのである。最優秀主演男優賞の決定時に松坂桃李氏の挨拶にもあったように、映画の完成・上映までには相当な抵抗力が働いたようである。


そのことを思う時、画期的な受賞である。12日付の聖教新聞12面でも日本アカデミー賞授賞式の模様を報じているが、松坂桃李氏の挨拶の取り上げる箇所を間違っているように思う。あまりにもあっさりとした報じ方である。今の創価学会の権力側との距離感がわかる報道の仕方である。


今回の「新聞記者」の受賞で、日本映画界を見直した。欧米の芸能界やスポーツ界は政治的信条や意見を鮮明に主張するように見受けられる。日本では、なるべくそういうものを隠そうとする。むしろ、権力側に利用されている感さえする時もある。そういった日本社会の中で、今回の「新聞記者」の受賞は意義が大きいように思う。逆に何らかの力が働いた感もあるのであるが・・・。


 芸能全般を見る時、本来は反権力に立つのが当たり前ではないのであろうか。名優の故三國連太郎さんなどは被差別部落出身を隠さず、芸能と差別の問題を本にも書き表している。本来、差別されてきた人たちが芸能を生み、育て、文化にしてきたのである。学園時代、何故か音楽の授業で「出雲阿国」以来の芸能の流れを学んだ時間があった。元々、差別されてきた側の人たちが芸能を育ててきた歴史を教えていただいた。「河原乞食」という言い方も、権力側からの芸能への侮蔑の呼称である。その中で芸能は、権力を笑い飛ばし、皮肉り、庶民の力に変えてきたのである。

 

 少し視点は変わるが、昨年の吉本興業の闇営業問題はその辺の事情が屈折して表面化してきたものでは無いかというのが、私の見解である。ここ数年、吉本興業は権力の側に寄りすぎた感がある。安倍首相が吉本の舞台に何度も立つ。吉本興業が政権のアキレス腱になった沖縄に進出して沖縄経済に影響力を持つ。まさに、タッグを組んでいると見るべきである。
それに対して、ヤクザが待ったをかけたと見るのが私の見方である。芸能とヤクザは元々一心同体である。美空ひばりのバックに山口組がいたのは有名な話だし、そんな話はゴロゴロあるのである。だいたいが“○○興業”なんて、大概がヤクザそのものではないか。
しかし、ヤクザもまた社会から疎外された存在、芸能者も社会からのあぶれ者として生きてきた人たちである。権力者とは反対側にいる人たちなのである。長い歴史を観れば、権力に利用されてきた芸能や芸術も多くあるのは間違いない。しかし、反権力こそ本来の芸能の矜持でなければならないと私は思う。

 また、一転して創価学会も反権力であるはずである。庶民の側であったはずである。「創価学会は永遠に民衆の側に立つ」との先生の御指導は昭和51年10月24日の本部総会であった。聖教新聞に掲載されたその指針を下宿の一室で見た感動は今も覚えている。政権の与党となることに異論はない。その中で、民衆の側に立った政策を進めねばならない。それがもし出来ない時は創価学会が諌めなければならないのではないか。それが創価学会の基本路線なのであるから!
そんなことを、「新聞記者」の受賞を観て、考える次第だ。