総罰について思うこと

罰という言葉はあまりいい響きではありません。

聞きたくもなければ興味もない、そのような考え自体が古臭いもの、過去の話となっていると捉える人が多いようです。

ですが、「いのちあるものよ、生きとし生けるものを慈しめ」という善き思考を前提として、即ち仏教的思考により、『世の事象といのちのはたらきを解明すべく「人間の心と行い」を功徳・罰という概念で省みさせようとした中世の宗教者の言葉』には、気づきと目覚めがあると思います。

日蓮大聖人は指摘します。

今日本国の疫病は総罰なり定めて聖人の国にあるをあだむか

日女御前御返事

民を愛し民を思う善き政道ではなく、衆生救済の宗教なき日本国。そこで多発する地震、大雨、大風等の自然災害と疫病、飢饉。特に疫病について仏教的に表現すれば、宗教を信じる信じないに関わらず、万人に等しく降り注ぐ「総罰」である。

その理由は、『世の実相と人々の心の見えざるつながりを見ると、「大いなる善きもの」無き故に。また、それを問う人を迫害することは、「あなたの内面の善きものを壊すことに通じるのであり、内面世界の破壊は国土世間の破壊ともなる」故である』と主張するのです。

疫病は個人の力ではどうしようもありません。ですが、自らを、また自らと世の関わりを省みるきっかけになるのではないでしょうか。

これまでの自分、これまでの世の中は変えようがありません。

これからの自分、これからの世の中はいかようにも変えられます。

今、この時に何を思い、何を考えるのか。

それが近い将来のあなたと世の姿なのですから、「総罰」という言葉を解明することにより、より善き明日でありたいと心から思うのです。

林 信男