【投書】池田門下は平和憲法を死守(1)
投書者:石楠花
<要旨>
・平和憲法は最強の国防である
・池田先生は徹して護憲である
・今,日本は極めて危険な状況下にある
高市政権は今,日本国憲法を変えようとしている。これが如何に恐ろしい企てであるか認識し,断固拒否せねばならない。彼らは現憲法をどのように変更したいのか,表にまとめた。
彼らの改正案は何を意味するのだろう。その特徴は以下の3点にまとめられる。
1・日本を戦争ができない国から戦争ができる国へと移行させる。
2・主権を国民から政府に移し,あらゆる権力を政府に集中させる。
3・国民から思想,信条の自由を奪い,個人を国に帰属させる。
そもそも憲法とは何か。憲法は国(権力を持つもの)の行動を縛るものである。つまり,憲法は国が勝手な振る舞いをしないように見張り,国家権力を制限するもので,これは当然,法律よりも上位に位置する。それが端的に示されているのが現行の99条で,天皇,議員,公務員を含め国側に立つものは憲法を擁護する義務があるとしている。だが改正案では国側でなく国民の側が憲法を尊重することになっている。これでは憲法の精神,憲法の定義そのものを破壊することになる。怖しいのは,98条に「緊急事態条項」が盛られていることだ。「緊急事態条項」とは,国家の危急時に三権分立を一時停止し、内閣に権限を集中させる力がある。それは国会議員の任期延長や、基本的人権の制限など,内閣の独裁を可能にするため,日本弁護士連盟は猛反対している。現実的には,1)災害時には災害対策基本法,2)テロの発生には国民保護法,3)内乱や戦争には自衛隊法,4)パンデミックには感染症法など,国家の危急時に対応する法律が現行の憲法下にあり,改正の必要はないのである。
自民党改正案どおりに改憲されたらどうなるか。自衛隊は真っ先に米国の対外戦争に派遣される。天皇は象徴から国家元首になる(皇室がそれを望むかどうかわからないが)。思想信条,宗教,言論の自由に制限がかかる。政治信条の異なる個人への拷問の禁止も緩くなる。そして,もし自衛隊が米国の先鋒となって闘った場合どうなるか。外務省は国連憲章の旧敵国条約は死文化されたと発表しているが,実は2025年時点でまだ国連憲章において改正されていない。旧敵国条約とは,日本,ドイツなど第二次世界大戦時に連合軍の敵側だった国が再び侵略政策を行った場合,各国は安全保障理事会の許可なしに軍事措置を執ることができるというものである。
もう1つ注目するのは第24条として新たに加えられる「家族は互いに助け合わなければならない」である。2021年に「こども家庭庁」は「こども庁」から家庭重視の観点を加えるということで「家庭」が加えられた。これは家族制度の復活が懸念されるだけでなく,旧統一教会が背景にあると私は感じている。旧統一教会はイメージを変えるために世界平和統一家庭連合という名称に変えた。これは教団の正体隠しであるとして,当初文化庁は許可しなかったが,自民党の原田義昭議員の圧力により2015年に改名変更が可能になった。これは原田自身が述べている(朝日新聞2026年3月9日)。いわゆるTM報告書により,自民党の多くの議員が教団と密接なつながりがあることが明らかになったが,自民党と教団のロゴマークがそっくりなことに薄気味悪さを感じるのは私だけであろうか。彼らは想像もできない様々な方法で日本の社会に入り込んでいる。反日思想を教義の根本におく彼らが改憲や日本の政策に巧妙に関与しているとなれば,改憲案は極めて危険なものだろう。
池田先生は,識者との対談,SGI記念提言,本部幹部会,小説『人間革命』,随筆など,あらゆる機会を通して,平和憲法を死守すべきであると主張をしている。私が把握しているものだけでも43件あるが,もっとあるかもしれない。第36回本部総会においては「第一に、断じて平和憲法を死守していくことであります。したがって平和憲法擁護運動を一段と強めていきたい。特にこのことは、青年部ならびに学生部に託したい」と訴えられた。また,創価学会の内部に対してだけでなく,毎日新聞の1994年9月のインタビューでも「私の立場は護憲です。憲法は変えさせません」と述べている。
しかし,最近,地域組織の方と話したり,SNSの投稿を見たりすると,創価学会員でも改憲に賛成だという声が聞かれるようになった。彼らの多くは,平和憲法は守りたい,戦争は嫌だ,だが自衛隊は明記したほうが良いという意見のようだ。これは公明党が加憲という形で自衛隊明記を提案していることと呼応する。その理由は,①核保有国である中国と北朝鮮がこんなに近い距離にあり,いつ攻撃されるかわからないから自衛隊を軍隊にしたほうが良い,という安全保障の面と,②会員の中にも自衛隊員がおり,いつまでも違憲とされているのは気の毒だという感情論の2つであるようだ。
このことについて,私は以下のように反論したい。
まず,①について。過去40年間に軍事侵攻が最も多いのは米国で,実に13か国を攻撃している。それに対し,中国の軍事侵攻はゼロである。米国240年の歴史の中で戦争をしなかった期間はたった16年間で,米国は戦争が好きな国である。海外に自国の軍事基地を置いているのは言うまでもなく米国が最も多く,80か国に750から800の基地を置いているが,それに対し,中国は1基地である。この規模から考えて,危険な国とはどこの国だろうか。田中優子法政大学元学長は日中関係について「中国は何もしていないのに、ずっと日本が主導的に問題を起こしていた。現在の日本のやり方は、当時の九・一八事変の時のやり方と全く同じだ。主体的に事件を起こし、逆に相手側に責任を転嫁し、この手口で世論を扇動し、軍の拡大を推し進める。これは安全を守るためではなく、日本を戦争の淵に追い込んでいる。」と述べているが,今,問題になっている中国大使館での自衛隊員テロ行為に対しても,日本は「遺憾だ」と述べるのみで,呆れたことに正式な謝罪はない。
800ある米軍基地の配置場所は日本が最多であり,戦後一貫して米国の出撃拠点として使われてきた。つまり,ベトナム戦争,湾岸戦争,アフガン戦争などにおいて,日本国内の基地から爆撃機が飛び立っていったわけである。米軍基地を持つ国は多いが,それらの国には拒否権があり,基地はあっても自国から米軍が攻撃に出ることを拒否してきた。直近の例としては,米国の同盟国イタリアにおいても,米国のイラン攻撃に反対するメローニ首相はイタリア国内に米軍機が着陸することを拒否した。だが,日本では拒否した例がないのである。これがどのような危険を孕むか。もしA国から米軍機が飛び立ちB国を攻撃したとすれば,B国は米国ではなく,A国の基地を破壊する作戦に出る。特に米国までの距離が遠い場合はそうなる。米中関係と,日中の物理的な距離を考えて頂きたい。日本が中国と戦争をする動機がなくても,米国の代理戦争に使われる可能性は十分すぎるほどある。
②について。法学者の中には自衛隊を違憲とする考えも一部に強くある。それは自衛隊がすでに軍隊と呼ぶに相応しい装備を具えているからで,第9条第2項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と矛盾するからである。しかし,自然災害等の救助活動に自衛隊の出動は必須であり,大災害時での隊員の献身は広く国民の知る所である。あんなにがんばってくれているのに,違憲扱いは気の毒ではないかという人も多いが,自衛隊法というものがあり,防衛出動(外国からの武力攻撃への対応),災害派遣(地震・台風など),国際平和協力活動(PKOなど)などは何も問題ない。よって,「憲法に明記はないが、解釈によって自衛隊は合憲とされている」という立場が現在の政府の公式見解と言えるが,これで良いではないか。
もし,自衛隊を憲法に明記(自民党改正案では国防軍にするという案)した場合,どうなるか。即座に米国は自衛隊員を米国の戦地に派遣するだろう。ベトナム戦争の時も,朝鮮戦争の時も,米国からの自衛隊派遣要請を突っぱねることができたのは,第9条があったからである。韓国軍はベトナム戦争で5000人の死者を出したが,日本の自衛隊は一人も死者はいない。自衛隊員を護る最強の武器は第9条なのである。
イラク戦争時には,集団的自衛権の決定で後方支援という名の下に自衛隊が派遣された。平和主義であったはずの公明党も集団的自衛権に賛成した。帰国後,彼らの29名が自殺し,その他の隊員も重いPTSDに苦しんでいる。これ以上,自衛隊員を犠牲にしないためにも,日本人は第9条を守るべきなのだ。
改憲を支持する人たちの中には,現行の憲法は1947年に制定されたのだから古い。社会の変化に合わせてアップデートすべきではないかという人もいる。『教学要綱』じゃあるまいし,なぜ憲法を変える必要があるのだろうか。憲法からずれてきた社会のほうを見直すべきだ。それに改憲を叫ぶ人たちほど,憲法を遵守していないではないか。
また,現憲法はアメリカに押し付けられたものだから,日本独自のものに変えた方がいいという人もいる。草案にGHQの手が入ったのは事実だが,戦争放棄については幣原内閣がマッカーサーに提案したという資料も堀尾東京大学名誉教授の調査で明らかになり,米国からの押し付け説は弱くなってきている。それに,これは私見だが,他国が考えたものだとしても,いいものならいいじゃないかと思う。私なら逆手にとって,トランプ大統領に「あっらー,貴国から平和憲法を押し付けられたせいで我が国からは自衛隊は出せませんのよ」と言う。(Pearl Harborと言われてヘラヘラしている高市首相には無理だが)
先に述べたように,池田先生はあらゆる機会に憲法を変えてはならないと述べている。その代表的なものを,ここに挙げておきたい。私は朝晩,御本尊と大聖人様に向かって「師匠と同じ生き方をします」と誓っている。
<『私の人生観』より抜粋>
日本国憲法が、戦争放棄を宣言した、世界に前例のない憲法であることは、今さらあらためて述べるまでもない。
この憲法を特徴づけている基本的人権、主権在民、戦争放棄の柱のなかでも、戦争放棄はまったく画期的な宣言といえよう。というのは、基本的人権の擁護や主権在民については、アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言に、すでに明示されているが、戦争の放棄だけは、いまだかつてどこの国でも規定した憲法は、なかったからである。
その意味からも、日本国憲法の最も重要なポイントは“平和”であり、平和憲法ということこそ、この憲法の最高に誇りうる栄冠であると私は考える。
同時に核戦争の恐ろしさに脅える現代の世界にあって、未来への唯一の希望を育てていける道も、この憲法の精神を、日本民族が広めていくかどうかにかかっているといってもよかろう。
残念ながら、戦後二十余年にわたって、万年与党として政権を担当してきたわが国の保守党は、本来、この憲法制定に重大なる寄与をしたアメリカのその後の政策変更に追随して軍備の復活を進め、平和憲法を、害虫がリンゴについたように空洞化してしまった。それでも飽きたらず、戦争放棄の規定を非現実的な理想主義と嘲笑し「国を守る気概」などと唱えながら、憲法改悪をすら企んでいるようである。
占領下に制定された平和憲法をめぐって、専門的には、種々、論議の余地があることも分からぬわけではない。しかし、それがどうあれ、この憲法の宣言した戦争放棄の条項が、辛い犠牲に泣いてきた国民大衆の心に、どれほど希望と喜びを与えてくれたか、計り知れないものがあった。
国民の大多数が、昭和に入ってずっとつづいた戦争のために、父を失い兄をなくし、夫と死別し息子を死なせた、悲しい思い出をもっていた。しかも、戦争に負け、国は焦土と化した。大事な人々の死は、まったくの犬死になってしまったことであろう。いな、かりに勝っていたとしても、死んだ者はふたたび帰ってはこない。
何のために死んだのか。そして、残された身として、何のための苦労だったのか。戦後、ポツダム宣言にしたがって、占領軍の指示のもとに軍備の一切が解除され軍隊がなくなり、日本が平和国家として生まれ変わっていったときに、初めて民衆は、このための苦労であり犠牲であったのだと理解したのである。
それは、弱い庶民の諦めからくる慰めだと言えたかもしれぬ。だが、そのように軽蔑したり平和の理想を捨てさせるような言動は、いかなる権力者もできないはずだ。そんな資格は、だれにもないばかりか、もしあえて言いだすとすれば、それこそ、過去の軍国ファッショの亡霊と、非難されるべきであろう。
憲法が発布された当時、私はようやく十九歳になったばかりであった。もとより、憲法制定にからまる、裏面の動きなど知るよしもない。しかし、そこに盛られた主権在民、戦争放棄の規定には、戦時中の苦しみや悲しみや、恐ろしさの体験から滲みでた、心からの共鳴を覚えたことを記憶している。この思いは、二十余年間、一貫して変わったことはない。
今日、再軍備を進め憲法の改定を主張する人々は、戦争の体験を忘れた健忘症か、戦争で甘い汁を吸った“死の商人”の手代としか、私には考えられない。国民は、戦争でまず犠牲にされるのが、だれでもない国民自身であることを、つねに念頭において彼らの言葉を判断すべきであろう。そうすれば、彼らの勿体ぶった論理の裏に隠されている、悪魔の爪は手にとるように見えてくるはずである。
彼らは言う。国民は国を守る気概をもたねばならない。泥棒に対して戸締まりをするのは当たり前のことだと。では、どこかにピストル強盗が入ったからといって、各人がピストルで武装しなければならないのか。いったい、戸締まりをするということが、どこで武装と結びつくのか、どうも不思議な論理になってしまう。
少なくとも日本国民にとって、生命を脅かしてきた最大の敵は、外敵よりもむしろ自国の為政者であったことは、歴史上の明白な事実でなかろうか。外からの侵入者のために、犠牲を出したのは、七百年前の蒙古襲来の時ぐらいであろう。それ以外は、外国との戦争といえば、すべてこちらから仕掛けたものであり、そのための犠牲であったといっても過言ではない。
古くは、神功皇后の新羅征伐から豊臣秀吉の朝鮮征伐、そして近代の日清、日露、日中、太平洋戦争にいたるまで、ことごとく時の権力者に徴発されて行った戦争であった。その間の幾百万あるいは幾千万の犠牲は、すべて戦争を起こした権力者の野望による犠牲であったともいえよう。とすれば、国民は外敵の侵入に対して、国を守る気概をもつより以前に、まず、為政者の野望から身を守る気概をもつほうが大事のようである。
そして、この国民の“身の安全”を最も明確に規定しているのが、平和憲法の“戦争放棄”である。
以上


