【投書】創価学会の行末を危惧して

投書者:空
私は「創価学会教学要綱」を読み違和感を感じていたが、須田晴夫氏の著書「創価学会教学要綱と日蓮本仏論の考察」を読み、双方を比較、どちらが正論なのかを検討した。まさしく須田晴夫氏の著書の方が正論中の正論であり、私の違和感を解消する書であった。続いて図斉修氏の創価学会教学要綱に対する考察論文も感銘を受けるもので、須田晴夫氏と図斉修氏の論文は私の支えとなっている。
御書に「日蓮を用いぬるともあやしくうやまはば国亡ぶべし」とある。今や世界宗教となった創価学会が、教学要綱では日蓮大聖人を末法の御本仏としながら、釈迦の使いであるかの様な扱いになっている、これは決して許される事ではない。御書に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」とある。末法は白法穏没、釈尊の仏法は滅びて功力がなくなることである。釈迦の力には既に人を幸福にする事など出来ないのである。釈迦に末法の時代に通用する力があるのであれば、日蓮大聖人に南無妙法蓮華経の題目を弘めさせず、自ら末法に生まれて弘教すべきである。日蓮大聖人は決して釈迦の使いではないのである。
あれこれと教学要綱の間違いを取り上げててもキリが無いが、先ずは、創価学会会員に対して、教学要綱の内容を納得のいく説明を一番にすべきである。非常に無責任である。質問した者は批判者、反逆者扱いし、役職も解任、一人を大切にする学会精神は最早、創価学会の組織には無いのか。御書には「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」と。謗法を黙認して呵責しなければ結果としては、同意し与したことになるから謗法の者と同じ罪を受けることになる―と。そうならない為にも教学要綱の間違いを指摘せずにはいられない。
原田会長や執行幹部は本当に御書を学んでいるのだろうか。御書に「先、臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて」とある。池田先生は「臨終」とは、「山頂」に譬えられるかもしれない、人生という山登りを終えたその地点から振り返って、はじめて自分の一生が見渡せる。
自分はこの一生で何をしたか、何を残したのか、人に親切にしたのか、人を傷つけたのか、どちらが多かったのか、自分にとって、一体何が一番大切だったのか―それらが痛切に、いな嵐のような激しさが胸に迫ってくる。それが「臨終」の一側面かもしれない―と。
臨終の事を思えば恐ろしくて、謗法など起こせるはずはないと思うのだが。 可哀想なのは、何も知らない創価学会の会員である。何の疑いも持たず真面目に信心している方々が上層部の言いなりになり、宿命転換、人間革命の道から気づかないまま外れる事になる。これは一番、恐れなくてはならない事ではないか。創価学会が世界宗教となった現在、世界中が戦争や天変地異や飢餓で苦しんでいるのは何故か、教学要綱のような間違った教えのためではないのか、「大悪起これば大善きたる」ではない。大悪そのものを起こしている原因は原田会長にあると私は思っている。
御書の唱法華題目抄に
「適(たまたま)、仏法を知る智者は国の人に捨てられ、守護の善神は法味(ほうみ)をなめざる故に威光(いこう)を失い利生(りしょう)を止(やめ)此の国をすて他方に去り給い、悪鬼は便りを得て国中に入(い)り替(かわ)り大地を動かし悪風を興(おこ)し一天を悩(なやま)し五穀を損ず故に飢渇出来(けかちしゅったい)し人の五根には鬼神入って精気を奪(うば)ふ是を疫病(えきびょう)と名(なづ)く一切の諸人善心無く多分は悪道に堕(お)つることひとえに悪知識の教を信ずる故なり」
この講義は、
「たまたま仏法を知る智者がいて国の人から捨てられ、守護する諸天善神は法味をなめることができない故に、威光を失って人々を利益しなくなり、この国を捨てて他方の国土へ去られた。悪鬼がそれにつけこんで国中に入り替わり、大地を動かし暴風を吹かせ、天下を悩ませ五穀を損なうのである。その結果、飢餓が起こり、人の五根にも悪鬼が入って精気を奪う、これを疫病というのである。一切の諸人は善心を失ってその多くが三悪道に堕ちる。これはひとえに悪知識の教えを信ずる為に起こるのである」
以上の文から、池田先生が亡き後、池田先生の指導から離れた教学要綱や師弟の道から外れた姿などは「仏法を知る智者がいて国の人から捨てられて」の文がこの事にも当てはまるのではないかと私は思う。
現在の初座の御観念文もキチンとした諸天善神への感謝の法味を送る言葉が無いのも「守護する諸天善神は法味をなめることができない故に」に当たるでしょう。「ひとえに悪知識の教え」はまさしく教学要綱である。その為に地震、暴風、悪天候による作物の不作や物価高、コロナやインフルエンザ等々の疫病、人心の乱れに悲惨な事件や事故等々、現実生活の上に現れているではないか。
これらの現象は教学要綱や三代会長の指導に背いているからである。戸田先生はこう言われていた。「五老僧の末裔が日蓮正宗の中に生まれて来て、必ず広布の指導者と創価学会を弾圧すると、それを乗り越えると今度は、その五老僧の末裔が創価学会の中に生まれて来て学会員を弾圧する。その時になって皆驚くなよ」と。
原田会長や執行幹部は五老僧の末裔なのだろうか。宗門の時は池田先生が学会員を守りに護ってくださった。今度は真の弟子が闘う番である。この闘いは創価学会創立100周年に向けて必然の事なのかも知れないが、宗門と本部と二度に渡って、こういう魔との闘いをさせていただけるとは、「此の事にあわん為なりけり」なのだと思える。
何と喜ばしきかな、闘わずに置くものかの意気である。

