色心不二について (教学の基礎パートⅢ)

投稿者:伊東浩
今回は教学の基礎パートⅢとして「色心不二」について解説したいと思います。
解説を始める前に、このオンスタも回を重ねるごとに新しく参加される方も増えてきましたので、今一度、このオンスタ(教学の勉強会)のスタンスと教学を学ぶ姿勢というか、仏法理解を深めるには何が必要かという話をさせていただきます。
オンスタに参加されている方の中には、長年、学会組織で一生懸命活動して来た人や、今まで教学をあまり学んでこなかったからもう一度真剣に学んでいこうとする人、またもっと教学を深めていこうとする人もいると思います。
そこで皆さんの心に留めて頂きたいことは、私たち自活グループはあくまでも「自立活動」を支援する集いですから、このオンスタにおいても皆さんが自ら学んだことを更に深めてもらうために補足しているようなものです。ですからもしもこのオンスタで1から10まで教学を学ぼうと考えている方がいるとしたらそれは筋が違います。また何でも人から聞いて覚えられると思っているとすればそれも間違いです。
今や基礎教学を学ぶための書籍は数多く出版されていますので、それを自分で少しずつでも学ぼうとしなければ、仏法理解というのはなかなか深まりません。そのことを心に留めていただいて、まずは「人を頼らずに自ら勉強すること」を心がけましょう。以上がオンスタの基本姿勢です。
それでは「色心不二」について解説していきたいと思います。「色心不二」の仏法用語については、学会の教学試験を経験されている方なら一度は聞いたことがある言葉だと思います。「色心不二なんて、なんで今さら勉強するの?・・・」と思う人がいるかも知れませんが、色心不二論は仏法の根底にある不変の哲理であり、仏法が一人の人間の成仏を説いている以上、生命の本質を説き明かした「色心不二」の哲理は避けては通れない重要な問題です。
とは言うものの、大聖人は「色心不二」を多岐にわたって展開されていますので、まだまだ私のような未熟な教学力では自分の言葉で全部説明することはできないですし、「色心不二」を深く掘り下げて完全に理解しているとは言えないので、今回は「末法の修行」に即して「色心不二」を解説していきたいと思います。
本題に入る前に、まず「生命とは何か」——という問題を追究する哲学を「生命論」、あるいは「生命観」ともいいますが、人間の生命を考察する場合、常に問題となるのは身体を構成する物質と精神(心)の関係です。古来、多くの哲学者や思想家たちがこの問題について議論を交わし、大きく分けて物質を中心とする「唯物論者」と精神を中心とする「唯心論者」が対立し論争が絶えませんでした。
さらに、生命の実体(本質)が〝物質〟か〝精神〟かという見方の対立が「自由主義」や「共産主義」となって現れ、その主義のもとに人間は破壊的な戦争をしてきた歴史があります。そのように考えると、生命の実体を正確に把握し〝生命の論理〟を解明した生命哲学こそ、人間が人間らしく生きるうえでもっとも学ぶべき重要な哲理であると思います。
その意味で仏教は、この〝生命の論理〟を三千年前の釈尊以来、ずっと追究し、解明してきた宗教であるとも言えます。私たちは教学試験などを通して、色心不二とは「肉体」(色)と「精神」(心)は、「二つにしてしかも一体」(二而不二)であると学んできましたが、現代医学においても肉体と精神は切り離してとらえることのできない密接な関係にあることは常識レベルにまで達しています。
この理解は決して間違いではないのですが、ただその真理だけにとどまっているとすれば、それは色心不二の内容のほんの一面しか捉えていないことになります。
本来、仏法の「色心不二」は、そのような認識的真理にとどまるだけでなく、もっと深く躍動的なもので、人間の生き方に根源的な「力」と「智慧」を与える生きた哲理です。
では、〝物質〟と〝精神〟の関係を仏教はどのように説き、大聖人はそれをどのように展開されているのか——その一端を、順を追って解説していきたいと思います。
【色と心の関係】
それでは「色心不二」を正しく把握するために、まずは「色」「心」「不二」それぞれの言葉を正確に理解していきたいと思います。
「色」は色法ともいい、大きくは「色や形があるもの」と「壊れて変化するもの」と2つの意味があり、そこから「物質」や「肉体」を指す言葉が「色法」とされています。
具体的にいえば、目に見えたり手で触れたりすることができる現象の世界だけでなく、声や音も「色」です。私たちが唱えるお題目も色法になります。
それに対して、「心」は心法ともいい、目には見えませんが厳然として実在するもので精神や意識などがこれに当たります。仏法でいう心法には、「意・識・心」の三通りの使い方があり、時代によって〝意〟が強調されたり、〝識〟が強調されたりしてさまざまに展開されてきました。たとえば釈尊滅後九百年頃、インドに天親(世親)が登場し「識」の根本にある「阿頼耶識」(あらやしき)という概念を導き出します。これはアビダルマ仏教の段階において「識」は眼・耳・鼻・舌・身の六識とされていたものが、大乗仏教にいたって「末那識」(まなしき)という第七識を加え、さらに天親の第八識(阿頼耶識)の概念を立てたことによってほぼ「識」の構造が確立されました。そして仏教が中国に渡ると天台大師は第八識の上に「阿摩羅識」(あまらしき)を加えて「九識論」の全容が完成します。
簡単に言えば、現象世界の根底に流れる「生命の本質」の世界を「九識論」で解明しようとした——と言えるかも知れません。
仏教で説く生命論は、その二つ(色心)が二つであって二つではなく一体(而二不二)であると説きます。これが「不二」の意味です。しかも「色法」「心法」のいずれかが根源となって「不二」というのではなく、両者(色心)が渾然一体となった「実体」そのものが根源であり、それが二つ(色心)の側面をもって現れると説いているのです。
唯物論は色法(現象)の世界を追究しようとするものであり、唯心論は心法(本質)のうちの一面の現象に着目してそこから論議を展開していったものと考えられます。しかし仏法で説く「色心不二」の基盤を忘れて、一部分をもって生命の一切であるとするところに従来の生命観(唯物論・唯心論)の誤りがあったと思うのです。
大聖人は「色心不二なるを一極と云うなり」(御義口伝)と仰せです。色法と心法は不二の当体であり、その不二の実体を南無妙法蓮華経と名付け、それが生命の本質であると仰せです。さらに森羅万象の一切が妙法そのものであり、それが色法や心法に現れるというのが「色心不二」の生命論です。現代の対立する社会を変革し、人間と自然の調和した世界を築くには、この「色心不二」の生命哲学を一人一人の心の中に打ち立てていく実践が最も大事なのではないかと思います。
【個々の生命と宇宙生命】
さて、色心不二は「色」と「心」の後にそれぞれ「法」という字が当てられていますが、仏教でいう「法」(ダルマ)の概念は多義にわたります。池田先生は「生命を語る」(1974年潮出版社)の中で、妙法の〝妙〟は宇宙生命のこと、〝法〟は個々の生命のことであると定義され、諸法実相論では〝諸法〟が個々の生命、〝実相〟が宇宙生命のことであると分かりやすく解説されています。 (趣意)
つまり、日蓮仏法の重要な思想である「色心不二論」「依正不二論」「一念三千論」等の思想は、ある意味でこの個々の生命(諸法)と宇宙生命(実相)との密接不可分(即)な関係をいかに説明し、万人に開いていくかという一点に注がれていたと言っても過言ではないと思います。この二つの関係をめぐって、仏教の思想は多岐にわたる論(色心不二・依正不二等)を展開してきたともいえるのではないでしょうか。
ただし、初期仏教は「人間苦」からの解脱という実践的な方向を目指して出発していますから、物質や精神を客観的に捉える認識についてはあまり重要ではありませんでした。
それ故に、色心は本来「空」であり、執着してはならない対象であるとされてきました。要するに、初期仏教は〝自身の肉体や心に執着しているがゆえに苦の現実を招くのであるから色心に囚われてはいけない〟と説くのです。
では、何のために色心(肉体・精神)を否定的にとらえようとしたのかというと、妙なる宇宙生命(妙法)の実在こそが生命の真実であり、これを万人に教え示し、一人一人に体得させるためだったのではないかと思うのです。しかしこの理屈は、南無妙法蓮華経
(宇宙生命)を体得するには、他でもない個々の〝色心(生命)を通してしか現れない〟という肝心の一点が欠落しています。この点を踏まえないと「灰身滅智」と称して人間の存在そのものを否定する方向にもなりかねません。この点を踏まえた上で「南無妙法蓮華経」(宇宙生命)と「個々の色心」(生命)の関係を的確に示されたのが「色心不二」の法門です。
【理上の不二門】
では「色心不二」という言葉はいったい何時頃に成立したのかというと、少なくとも中国天台宗の第六祖である妙楽大師の頃ではないかと考えられます。詳しいことは省きますが、妙楽大師は天台の「十妙」の思想を、十の不二門(十不二門)にまとめています。その中に「色心不二」や「因果不二」、「依正不二」など、私たちの馴染み深い言葉が出てきます。繰り返しになりますが、不二とは「而二不二」「不二而二」の関係を含む言葉で「色心不二」でいえば、色と心の二つが不二の究極に至り、また究極の不二から色・心の二つと分かれてくるという構造を説明したのが「不二」の意味です。
池田先生の定義(生命を語る)に従えば「法」は個々の生命のことですから、理論としては個々の生命 (色心二法)は不二なる宇宙生命へ帰一し、その宇宙生命が発動して個々の生命へと顕現するという姿が「色心不二」の根本的な意味です。
ただ天台の場合は、初期仏教の〝色心〟を「空」と観じていくあり方とは違い、不二の究極の境地を「諸法実相」とし、〝色心〟ともに実相を具しているところを「色心不二」としていますから、原理的には色法を通しても実相に至る(体得する)ことができますが、天台の実相論はあくまでも自分自身の心を「対境」としていますので、この対境である己心の一念を通して、世界を観ていくのが天台の実践修行(心法行)になります。
しかし天台の「色心不二論」は、個々の生命である「諸法」と宇宙の生命たる「実相」の関係が而二不二、不二而二の構造になっていることを、ただ凡夫の心法を通して内観しているにすぎず、大聖人の仏法から見れば「理上の法門」と言えます。
【事行の不二門】
先ほど、「南無妙法蓮華経」(宇宙生命)と「個々の生命」(色心)の関係を的確に示した法門が「色心不二」であると言いましたが、大聖人の色心不二論は「事行の不二門」(百六箇抄)といわれているように、天台の色心不二の法門を大聖人独自の立場から展開されています。つまり、色心が不二になることを心法中心に観照するのではなく、外に向かう宗教的実践(色法)において色心の二法を不二にしていくという展開です。
大聖人は色心の二法に関して次のように仰せです。
「あっぱれな殿(日朗)は、法華経一部を色心二法にわたって読まれたのであるから、その功徳で父母、六親、一切衆生をも救済すべき御身である。他の人々が、法華経を読んではいるが、口ばかり、意味のうえだけで読んでも、心では読まない。あなたのように色心の二法にわたって法華経をよまれてこそ、まことに尊いことである」(土籠御書)と。
このように大聖人は「色心」を実践行動と関連させて説かれ、法華経を「心」で読むと同時に「身」(色)でも読んでいかなければならないと強調されていて、法華経の「身業読誦」という実践との関連のうえから「色心の二法」を説いています。
また「法華経を持ち信じていても、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれである」(阿仏房尼御前御返事)と言われ、法華経を能く持つ「身業読誦」をもって色心相応の信者と定められました。
さらに大聖人は、東条景信に襲われた〝小松原〟と〝竜口の頸の座〟の二難を挙げて「色心の二法からそしられた者は日本国の中では日蓮ただ一人である」(上野殿御返事)と仰せのように、大聖人は心法(心)と色法 (身体)の合致した行動によって「不二」なる境地に統一していくという実践修行をとられているのです。
要するに、大聖人の不二なる「境地」、先生の言葉で表現すれば「我即宇宙」「宇宙即我」
は色心二法にわたる実践の結果、おのずから体得されたものであったということです。
大聖人は「自身の思いを声にあらわすことあり。されば、意が声とあらわる。意は心法、声は色法。心より色をあらわす。また声を聞いて心を知る。色法が心法を顕すなり」(木絵二像開眼之事)と仰せです。この御文は、声(色法)と意(心法)は不二であると述べられているところですが、大聖人の諸御書を拝読すれば、「如是相」を最も重要視され、文証・理証よりも現証を重んじられています。
それは私たちの信心修行においても同じです。私たちがご本尊の前に座り、読経・唱題することは単なる儀礼なのではなく、ご本尊を信ずる力によって、色法と心法とを統一し、具体的な色法次元での実践行動によって、不二なる南無妙法蓮華経(宇宙生命)を我が生命に体得していくのが大聖人の「色心不二論」です。
もっと言えば、大聖人の色心不二論は、我が生命の色心二法を妙法への「信」と「行」とによって不二なる宇宙生命(南無妙法蓮華経)へと帰一させるとともに、その宇宙生命(南無妙法蓮華経)を、個々の生命(色心二法)のうえに発動させていくという関係にあります。
したがって「成仏」を目指す自立した信仰の姿勢は、何があってもご本尊を信じ抜き、ご本尊に向かって題目をあげ抜くことが、もっとも正しい信仰のあり方であると確信します。
【結論】
最後に改めて皆さんに伝えたいことは、いくら「宇宙の原理」や「法」を理解していてもそれで成仏するわけではありません。もちろん、大聖人の教義を理解しようと努力することは大切ですが、私たちの心の中にある仏界を湧現させ、成仏を目指すには、実際に仏を体得されている仏の心(御本尊)を対境として世界を観ていく「唱題行」の実践しかないのです。その仏の心(ご本尊)を外して、宇宙の原理をいくら理解したところで何の役にも立ちません。だからこそ大聖人は末法に生きる私たちのために、実践の上から「発迹顕本」をされて仏の境涯を示し、その仏の境涯(心法)を「ご本尊」(対境)として顕されました。
その大聖人の命を対境としていくからこそ私たちも成仏が叶うのです。これが実践的な成仏の姿です。これらのことを心に留めて、今まで以上に「唱題行」に励んでいきましょう。
以上で終わります。