投書者:石楠花
<要旨>
・「戸田城聖全集」「法華経の智慧」において,威音王仏の言及はあるが,それを創価学会仏につなげる文言はない。
・創価学会仏について言及した2018年の原田会長指導は極めて扇動的な内容となっている。
・「新人間革命」には創価学会仏を絶対化するための意図的なレト
リックが観察される。
「教学要綱」が強調する創価学会仏は,池田先生の「威音王仏とかいろいろあるでしょう。そういう立場で創価学会仏という仏になるという、そういう意味の、先生のおおせらしいのですよ。これは不思議ですね」(昭和37年10月18日付「聖教新聞」座談会)という発言を根拠にしているものだ。
それでは威音王仏とは何か。これは法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる仏で,「得大勢 乃往古昔」(554頁,9行目)から「阿耨多羅三藐三菩提」(560頁5行目)に説かれる。(『妙法蓮華経並開結』創価学会版 聖教新聞社)
『サンスクリット原典現代語訳 法華経下』(植木雅俊訳 岩波書店)によれば,「恐ろしく響く音声の王」(威音王)という名前の正しく完全に覚った如来で,尊敬されるべき人」「享楽を離れた(離衰)という劫において,また偉大なる創成(大成)という世界において,学識と行いを完成した人であり,また人格を完成した人で,世間をよく知る人で,人間として最高の人で,訓練されるべき人の御者で,神々と人間の教師で,目覚めた人で,世に尊敬されるべき人」(152頁)という意味だそうだから,とてつもなく偉大な人格者で人々から仏様と崇められるような存在だ。
御書には観心本尊抄,報恩抄,顕仏未来記をはじめ10か所に威音王仏が登場する。この中で日蓮仏法の信者を威音王仏になぞられているのは,「御義口伝巻下第三威音王の事」である。その御文は以下の通り。
「御義口伝に云く威とは色法なり音とは心法なり王とは色心不二を王と云うなり、末法に入て南無妙法蓮華経と唱え奉る是れ併ら威音王なり云云、其の故は音とは一切権教の題目等なり威とは首題の五字なり王とは法華の行者なり云云、法華の題目は獅子の吼ゆるが如く余経は余獣の音の如くなり諸経中王の故に王と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る威音王仏なり云云。」(764頁)
「戸田城聖全集」全巻を通して,創価学会仏の文言は一度もないということを,前回の投稿で述べた。では,威音王仏についてはどうか。
「戸田城聖全集」第7巻の観心本尊抄講義(321頁)に威音王仏の語釈があるのみで,講義に威音王仏を創価学会につなげる内容は一切ない。
語釈は「法準経の不軽品第二十にあり、成音王仏の像法時代の末に不軽普薩が出て但行礼拝を立て折伏を行じたが、時の四衆はみな、ことごとくこれを信ぜず、かえって不軽菩薩を毀、追害して、その罪により地へ堕ちたとある。」である。
「法華経の智慧」では,威音王仏について言及した箇所が3か所あるが,ここでも威音王仏を創価学会につなげる文言はない。以下に抜粋する。
① 池田:化城喩品では大通智勝仏が、常不軽菩薩品では威音王仏が
法華経を説いている。日月燈明仏の弟子の妙光菩薩も、大通智勝仏
の弟子の十六人の菩薩も、それぞれ仏の入滅後に法華経を説いてい
る。威音王仏の滅後には、不軽菩薩が、いわゆる“
二十四文字の法華経”を唱えている。法華経は、常に「
滅後のため」の教えなのです。
(序品第一章)
② 斉藤:はい。経文には、こうあります。「(不軽菩薩は死期が来て)まさに命が絶えようとするとき、天空からの声で、威音王仏が、かつて説かれた法華経の説法を聞き、そのすべてを信受した。そうして、先に(法師功徳品で)説いたような六根清浄を得た。六根清浄を得て、そのあと二百万億那由佗年の寿命を増し、広く人のために、この法華経を説いた」(法華経559頁)
池田:そう。「寿命」を延ばしたのです。生きのびたのです。生き抜いたのです。
(常不軽菩薩品第二十章)
③ 池田:本門では「音声」に関する名前が多い。にぎやかです。妙音、観音のほか、次の陀羅尼品も、声を出すことに深く関わっている。「威音王仏」とか「雲雷音王仏」とか「雲雷音宿王華智仏」とか。これに対し、迹門には「光」に関する名前が多いとされている。
(観世音菩薩普門品第二十五章)
つまり,戸田先生も池田先生も,威音王仏を創価学会仏に展開する文献はないということである。しかし,前回の投稿「いわゆる創価学会仏について」の①から⑦,及び⑯において,池田先生は,戸田先生が学会をあまりにも使命深き存在としてとらえ,威音王仏に喩えられたと述べられている。私の個人的推測だが,名もなく貧しくも身を粉にして広布に走る会員に,戸田先生が励ましと希望を贈られた言葉ではなかったかと思う。
ところが,「新人間革命」第21巻から様相は変わってくる。文中,創価学会仏は頻出するようになり(詳細は前回の投稿を見られたい),2018年3月12日聖教新聞掲載の原田会長指導ではこのように言われている。
「創価学会仏の生命とは何か。それは、三代会長を貫く、不惜身命
の精神です。創価学会仏の五体とは何か。それは、師弟の血脈を満
身にたたえ、広布拡大に邁進しゆく、私たち学会員一人一人です。
ゆえに私たちの異体を同心とする団結は、距離を超え、時間を超え
るのであります。池田先生が厳然と指揮を執ってくださっている今
この時は、世界広布の草創期であります。
永遠に勝ち栄えゆく創価学会を、私たちの師弟不二の精神、
師弟共戦の実践で、盤石に築き上げていこうではありませんか。」
もはや威音王仏などどこにもなく,創価学会という組織体がすでに創価学会仏であるというような文言である。では,創価学会は法華経に説かれた威音王仏のように「学識と行いを完成し,人格を完成し,世間をよく知る人間として最高の人」の集まりと言えるだろうか。
この展開を以下に示した時系列に照らし合わせてみると,学会の動向と創価学会仏の解釈の変化は強い関連があるように,私には見える。
2006年 原田稔氏第6代会長に就任
2008年 「新人間革命」21巻SGIの章が新聞連載開始
2010年 5月を最後に池田先生は表舞台に出なくなる
2014年 戒壇の御本尊は受持しないとの教義改訂
2015年 正木氏理事長更迭「世代交代と若手登用を進めるため」が表向きの理由だが,高齢の長谷川氏が理事長就任,翌年,正木氏は体調不良を理由に辞任
2017年 創価学会会憲制定
2018年 3月原田会長が創価学会仏について会長指導の中で強く言及
9月「新人間革命」完結
2021年 7月原田会長指導で反対意見を述べるものを反逆者と断罪
2023年 「教学要綱」発表
創価学会仏が頻出する「新人間革命」21巻は2008年に新聞連載が開始し,2013年に単行本として出版された。以後,2018年9月まで,「新人間革命」は続いていくが,この中の創価学会仏のレトリックの変化に私は着目している。レトリックとは,聞き手や読み手の感情に強く訴え,納得させ、行動を促す修辞法である。→の右側は私のコメントである
例1:戸田は、その大聖業を果たしゆく創価学会という教団は、「創価学会仏」であると宣言した(24巻)→そんな宣言はしていない。していれば文献にあるはず。
例2:創価学会は、仏意仏勅の組織であり、人類の幸福と平和を実現する「創価学会仏」ともいうべき存在である(25巻)→ここではすでに創価学会は創価学会仏になっている。この後に続く「反目し、非難し合うことは、組織という一つの統合体を引き裂く行為に等しい。それは、破和合僧であり、恐るべき仏法上の重罪」を引き出す記述となっている。
例3:戸田先生は、学会を『仏意仏勅の団体』と言われ、『創価学会仏』とさえ表現された(27巻)→そのような表現はしていない。していれば文献にあるはず。
例4:戸田は、学会を「創価学会仏」と表現した(29巻)→していない。していれば文献にあるはず。
例5:学会は、「創価学会仏」なればこそ、永遠なる後継の流れをつくり、広宣流布の大使命を果たし続けなければならない(30巻)→学会がいつ創価学会仏と言われるか全くの未知数であるのに,すでに「学会は創価学会仏なればこそ」と創価学会仏であるという前提で書かれている。
お気づきだろうか。最初は「戸田先生がこう言った,表現した」「創価学会仏ともいうべき存在」だったのが,30巻にいたっては,「学会は創価学会仏なればこそ」となっているのだ。この巧みな誘導は,会員に希望を与えるというよりは,創価学会はすごい団体なのだから,そこに従わなければ重罪だぞ,という脅しであり,組織絶対主義への構築を図るものであると思う。それに,威音王はあまりに優れた人格者であり,多くの人々を教化したために,「威音王仏」と言われるようになったのが本来の意味であり,自らを「私は仏である」と名乗ったわけではない。創価学会は自らを「仏」と名乗り,世界宗教たらんとしている。決意するのはけっこうなことだが,これは後の歴史が証明することであって,自ら宣言するのはいささか独善的ではあるまいか。
文献にないということは文証がないということである。教義の正しさを立証するのに,三証が必要なことを,まさか創価学会教学部が知らないなどということはあるまい。2014年以降,学会員の基礎教学力は著しく低下している。三証を知らない人もいるかもしれない。会長のいう事に間違いはないと思っているなら,このような単純な嘘も見破ることはできないだろう。
最後に,威音王仏の語釈のみが収録されている「戸田城聖全集」第7巻の観心本尊抄講義であるが,同講義に以下の重要な内容があるので記しておきたい。
いま大聖人も末法に出現して、その御本懐たる文底深秘の三大秘法の大御本尊をわれわれに受持せしめんとして、その授与する人を明かす重大な間題であるから同じ儀式をとられたのである。しかも地涌というといえども、御自身自体がその人なることを明かさんがために、「又正像二千年の人の為に非ず末法の始め予が如き者の為なり」と仰せられているのである。かく論ずれば、日蓮大聖人は地涌唱導の大導師・ 上行菩薩の本地のみが顕れて、大聖人を上行菩薩なりと断じきってしまうおそれがある。しかしこれは教相の面であって、内証の面ではないことに留意すべきである。御内証の面よりすれば、授与する人それ自体が授与する法体と即一 である。ゆえに日蓮大聖人は久遠元初の自受用身それ自体であることを知らねばならぬ(324頁)。