【投書】いわゆる「創価学会仏」について

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投書者:石楠花

いわゆる「創価学会仏」について

<要旨>
1.「戸田城聖全集」には,創価学会仏の文言は1回もない。
2.小説「新・人間革命」21巻から,創価学会仏は頻出する。
3.池田先生の御指導では8回出ているが,すべて「戸田先生は仰った」という引用である。

いわゆる「創価学会仏」について考察する。「教学要綱」では,「創価学会仏」なる文言が強調され,その根拠は池田先生の次の指導である。「戸田先生がひとことお話しになりました。たとえば、こういう大勢の学会人がいても、将来、将来といっても、これはいつのことになるかわかりませんけれども、経文が、また仏が出て説かれるときには『創価学会仏』という仏の名前で出ると」(『教学要綱』p194)。これは昭和37年10月18日付「聖教新聞」座談会「学会伝統の実践の教学」からの引用の一部であり,実はまだその続きがある。
その続きとは「威音王仏とかいろいろあるでしょう。そういう立場で「創価学会仏」という仏になるという、そういう意味の、先生のおおせらしいのですよ。これは不思議ですね」
である。

「いつのことになるのかわかりませんけれども」「先生のおおせらしい」という断定をさけた言い方であり,しかも,威音王仏を例に出しての発言であることに注視しなければならないと思う。威音王仏とは,「法華経常不軽菩薩品第20に説かれる仏。同品によれば、はるか過去に大成国を、威音王という2万億の同名の仏が順番に主宰し、衆生を教化してきた」(創価学会教学用語検索サイト)というものであり,仏典に中に出てくる王で,実態の証明は不可能と行って良い。それにも関わらず,現在の創価学会がすでに威音王仏のような存在であると解釈し,三宝の僧宝が創価学会であるとするのは,甚だ性急で独善的であると言わざるを得ない。

それでは,戸田先生,池田先生の指導において,この「創価学会仏」はどのように説明されてきたのだろうか。

まず,「戸田城聖全集」であるが,和光社発刊(1965年~1966年)のものと,聖教新聞社発刊(1981年~1988年)の二種類がある。内容は同じであるが,和光社は廃業したのか今は存在しない出版社なので,和光社の出版権利を聖教新聞社が買い取ったものだと推測される。前者は5巻あり,後者は9巻あるが,私の調査では全巻を通じて,「創価学会仏」の文言は1回もない。

次に,池田先生の指導ではどうであろうか。私が調べたところでは「創価学会仏」の文言は16回ある。その中で「人間革命」では1回,「新人間革命」には8回出てくる。本稿の末尾に16の例を列挙したので,ご覧頂きたい。一目してわかるのは,すべて「戸田先生がおっしゃった」という言い方であり,戸田先生の文言を引用されたという形である。池田先生ご自身は「創価学会仏」について,考察や裏付けはされていない。しかし,肝心の戸田先生の文献にはないという点を不思議に思う。

特徴的なのは,「新人間革命」21巻から創価学会仏が頻出することだ。そして,この文言の前後には,団結,組織の統合体ということが強調されている。「新人間革命」21巻は2008年1月1日に聖教新聞に連載が開始され,2010年3月に単行本として発刊された。同書は2018年に完結したが,新聞に連載された内容と単行本が完全に一致しているかどうか,手元に新聞資料がないので確認することはできない。ただ,多くの人が,「新人間革命」に限らず,池田先生の書籍には内容の変更が多いと指摘しており,そればかりか,同書の最後のほうは,本当に池田先生の御執筆によるものなのかという疑問を述べている人も多い。その1つ1つを検証することは本稿の目的ではないので,ここでは立ち入らないが,「新人間革命」21巻から創価学会仏が強調されていることは事実である。

創価学会が教義改定をしたのは2014年,そして創価学会仏を強調する「教学要綱」が発表されたのは2023年11月である。この時系列を見ると,「新人間革命」は「教学要綱」を準備する意図があったと容易に推測される。原田会長の指導には,組織の決定に忠実であることが信心であるかのような文言が多く見受けられ,それは2021年7月4日聖教新聞掲載の指導にあるように反対意見を述べるものを「反逆者」と決めつける方向へと導かれていく。

「教学要綱」では,三宝の定義から日興上人を削除し,僧宝を創価学会としたが,信徒の団体が帰依の対象ということになる。自らが信徒であるのに,その団体に帰依するとはどういうことか。これは組織信仰そのものである。須田晴夫氏も述べているように,歴史的に見てもいかなる組織,宗教団体にも間違いはあり,常に正しいとは限らない。過去において,創価学会は言論出版事件も起こしたし,創共協定も一方的に反故にした。師匠であるべき池田先生を会長職から引きずり下ろしたのも,創価学会ではないか。今また,創価学会は得体の知れない教義を作り,会員を選挙と新聞啓蒙と財務に駆り立て,それを信心だと思いこませているように,私には見える。

「戸田城聖全集」に創価学会仏が一度も言及されていないことを学会教学部は知っているのだろうか。文献にないということは,文証がないということである。文証がないものを教義に用いるとはおかしな話ではないか。そもそも信徒が教義を変更して良いはずがない。信徒が変えて良いのは組織運営や布教方法だけだ。信徒が教義を変えることができるなら,それはもはや宗教ではない。

創価学会仏が文献になく,池田先生の書物の中ですべて「戸田先生はこう仰った」とされているのは,これは私の推測だが,戸田先生の会員への励ましであり,濁悪の社会で正法を広めていることに誇りを持ってほしいという願い,希望だったのではないだろうか。それは教義というものとは異なるものだ。

学会教学部は,創価学会が日蓮正宗から独立したのだから,教義も独立したものにアップデートすべきだと考えたようだが(時の流れには逆らえません,か?),かつて大御本尊から「大」を取った時と同じ間違いをしている。日蓮正宗はたしかに日興門流下であるが,日興上人の精神は戦時中に伊勢神宮の神札を許容した時から,日蓮正宗にはない。最近,牧口初代会長の特高調書を読む機会があったが,謗法に対する謹厳さは日興遺誡置文とまったく同じであり,そこにこそ,日興上人の精神は流れている。そして日蓮大聖人と日興上人は師弟不二であり,その精神は創価学会三代会長に間違いなく継承された。だから,日蓮正宗でなく創価学会三代会長こそが日興門流なのである。日蓮正宗が失った日興上人の精神,日寛上人の教学を創価学会こそが受け継ぐべきであるはずなのに,そこがわからずに,学会はおかしなものを作ってしまった。自らを日蓮門下であろうとするなら,勝手に教義を変えるのではなく,三代会長の御精神にこそ連なるべきだと思う。

以下が池田先生の書物にある「創価学会仏」である。参考にされたい。

① 戸田先生は、将来は、創価学会員一人一人の人生が「創価学会仏」として不滅の経典に刻まれると断言されていました。(一生成仏抄講義)

② 戸田先生は、おっしゃった。
 「創価学会は、日蓮大聖人の仏法を末法の民衆に教え、流布するために、御本仏のお使いとして出現し、菩薩道を行じているのだ。これは、法華経に説かれる『我常在此。裟婆世界。説法教化』の一分の姿ではなかろうか。そうしてみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえるだろう」(第50回本部幹部会、第12回全国婦人部幹部会におけるスピーチ、2005.6)

③ すると、学会の存在もまた、「我常在此裟婆世界、説法教化」の姿ではないか。してみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえよう――。戸田の胸に、熱い感動が込み上げ、あふれ出る感涙が枕を濡らした。(小説「人間革命」12巻 憂愁)

④ ある時、戸田先生は、その「創価」の誉れを、私に語ってくださった。
 「『創価学会仏』――未来の経典には、こう学会の名が記されるのだよ」(2006.5.10 随筆 人間世紀の光3)

⑤ この大法を、地球上に慈折広宣流布し、まさに「我れは常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」の経文を身読しているのが、創価学会だ。
 すなわち、学会は、それ自体が、「創価学会仏」というべき存在なのである。
 これが、戸田先生の絶対の大確信であられた。(2006.11.20 随筆 人間世紀の光4)

⑥ 戸田先生は、学会の存在は、未来の経典に、必ず「創価学会仏」と記されるであろうと、深く洞察され、強く断言なされたのである(2007.5.4 随筆 人間世紀の光4)

⑦ 青年の生命に本然的に具わる、まばゆいばかりの威徳こそ、戸田先生が「創価学会仏」と言われた、わが学会を荘厳する宝財なのである。(2008.3.16 随筆 人間世紀の光5)

⑧ 仲良く団結しているということは、それ自体、一人ひとりが自身に打ち勝った勝利の姿であるといえる。わがままで自分中心であれば、団結などできないからだ。
  創価学会は、広宣流布を推進する仏意仏勅の団体である。
  「われらは創価学会仏である」とは、軍部政府の弾圧という法難に遭い、御書を身で読み、獄中で悟達を得た戸田城聖第二代会長の大確信である。(小説「新・人間革命」21巻 SGI)

⑨ 創価学会の確信の精髄は、戸田城聖の「獄中の悟達」にある。法華経に説かれた「在在諸仏土 常与師倶生」(在在の諸仏の土に常に師と倶に生ず)の文を生命で読んだ戸田の、「われ地涌の菩薩なり」との悟達こそが、学会の魂である。その戸田という師に連なる時、学会は広宣流布を使命とする「創価学会仏」たりえるのである。
(小説「新・人間革命」22巻 新世紀)

⑩ 「戸田先生は『創価学会仏』と言われた。末法万年の広宣流布のために、大聖人の御遺志を受け継いで出現したのが創価学会です。だから、先生は、学会の組織は、ご自身の命よりも大事であると語られている。(小説「新・人間革命」22巻 波濤)

⑪ 戸田は、その大聖業を果たしゆく創価学会という教団は、「創価学会仏」であると宣言した。大聖人は仰せである。「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」つまり、水魚の思いをもって、心を一つにして信心に励む時、生死一大事の血脈、すなわち、妙法の血脈が流れ通うのだ。ゆえに、「創価学会仏」たる根本条件は、広宣流布への異体同心の団結にある。したがって、戸田城聖のこの歌は、全同志が永遠に心に刻むべき指針となるのだ。(小説「新・人間革命」24巻 母の詩)

⑫ 創価学会は、仏意仏勅の組織であり、人類の幸福と平和を実現する「創価学会仏」ともいうべき存在である。その学会にあって、団結できずに、反目し、非難し合うことは、組織という一つの統合体を引き裂く行為に等しい。それは、「破和合僧」であり、恐るべき仏法上の重罪となるのである。(小説「新・人間革命」25巻 薫風)

⑬ 戸田先生は、学会を『仏意仏勅の団体』と言われ、『創価学会仏』とさえ表現された。広宣流布をわが使命とし、異体同心のスクラムを組むなかで、創価学会仏の一員となり、崩れざる幸福を築くことができるんです。(小説「新・人間革命」27巻 激闘)

⑭ 戸田は、学会を「創価学会仏」と表現した。そこには、濁世末法に出現し、現実の社会にあって、広宣流布即立正安国の戦いを勝ち開いていく学会の尊き大使命が示されている。(小説「新・人間革命」29巻 源流)

⑮ かつて戸田は、「学会は、この末法にあって、これだけ大勢の人に法を弘め、救済してきた。未来の経典には、『創価学会仏』という名が厳然と記されるのだよ」と語っていたことがあった。「創価学会仏」とは、初代会長・牧口常三郎、第二代会長・戸田城聖という師弟に連なり、広宣流布大誓願の使命に生きる同志のスクラムであり、地涌の菩薩の集いである。学会は、「創価学会仏」なればこそ、永遠なる後継の流れをつくり、広宣流布の大使命を果たし続けなければならない。
(小説「新・人間革命」30巻 大山)

⑯ あまりにも使命深き学会の存在について、戸田先生はこう語られたことがありました。-法華経には、威音王仏という仏が登場する。二万億もの仏が、みな同じ威音王仏という名前で、長遠の歳月、衆生を救済してきたと説かれている。この威音王という名も、優れた仏の名であったかもしれないし、またそういう名の教団があったと考えることもできる。同じように、「創価学会」という教団は、必ず未来の経典に金文字で記される。「一閻浮提広宣流布」という未来記を実現した「創価学会仏」として、永劫に仰がれゆくのだ―(2009.2.5 「御書と師弟・仏の未来記」)

以上。

もし,資料中に間違いがあった場合は,https://note.com/okashinaneko/n/nfbb89d4b8604 にご指摘下さい。

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