投書者:カナリア
Clear skyさんは2016年頃より、適宜適切な論考(図説含む)で、
心ある人々を照らす、道標となって下さった。今回、下記簡潔に述
べられている。
『現・教学は「人法一箇は否定」「文底仏法も否定」「日蓮本仏は否定」され、「釈迦本仏」である。「久遠元初」も用語は残るが、意味は変えられた。全てがこの論法で組み替えられている。正に「羊頭狗肉」である。本当に注意しなければならない。
何より、今の教義は池田先生の指南に背いている。教学をしっかり学ばないと簡単に騙されてしまう。』
11月が来ると、先生が逝かれて早2年。2010年5月より、先生が公の場に出られなくなってから15年の歳月が過ぎた。いよいよ各人においての「如是我聞」の時ではなかろうか?
言うまでもなく「如是我聞」は「法華経」をはじめ、多くの経典の
冒頭の言葉である。訓読みすると「是かくの如ごとくを我われは聞
きけり」となり、「このように私は聞きました」
という意味になる。
本幹同時放映が始まったのは1989年。2010年5月までの20年余、池田先生は会員諸氏に直接、ご指導して下さった。現在活動家の中核を占める多くの方々が、先生から様々なご指南を受けているはずである。「私は先生からこのように聞きました!」「先生の真意はこうだったと感じました!」等々、語り伝えなければ、先生のご精神は受け継がれないことになる。
分断を煽るものではないが、どこまでも池田先生のご指導を基準とし、師匠の教え通りの実践をしていこうとする弟子たちを「原点回帰池田派」とするならば、自分の頭では考えずに組織の打ち出しに従う、「組織時流派」の相克が、今後強まっていくのであろう・・。
そのせめぎ合いの中で、池田思想が純化され、広宣流布に必要な、「本当の創価学会」が作り直されていくなら、それは諸天の計らいと捉えていくべきことなのかも知れない。
戸田先生とゆかりのあった作家、子母澤寛の小説「大道」の最後の部分、主人公の「野中兼山」の言葉を以下紹介する。
『俺は人間の大道を歩いて来た。命がけで真面目に信念の上を歩き
、誠実の上を歩いて来た。俺は、今日切腹の使者が来ても、
本当に笑って死ねるぞ・・強い、俺は強い、
大道を歩いて来たものは強いッ』
一方当然ながら、「紅の歌」にあるように、邪悪の徒に栄は無いのである。