三種九部の法華経について (教学の基礎パートⅡ)

投稿者:伊東浩
今回は教学の基礎パートⅡとして「三種九部の法華経」について解説し、大聖人はどのようにして法華経を「文上」と「文底」に区別し、末法の法華経である「三大秘法の南無妙法蓮華経」を明示していったのかを解説していきたいと思います。
前回のオンスタでは、大聖人と法華経の関係をテーマに「御書中心」に法華経を見るのか、それとも「法華経中心」に大聖人の弘教を見るかの立場を明確にし、大聖人の教義たる「三大秘法の南無妙法蓮華経」はあくまでも法華経の教相(所説)に立って明示したものであると解説しました。繰り返しになりますが、法華経には「三種の法華経」があり、正法時代は釈尊の「二十八品」、像法時代は天台の「摩訶止観」、末法時代は大聖人の「三大秘法の南無妙法蓮華経」でそれぞれ時代や表現は違いますが、それらはすべて同じ法華経です。そしてその三種に共通する不変の真理は「万人が等しく成仏の可能性をもっている」という教えです。
天台は「法華経」を文上から読んで経文の文句などを精密に解釈し、法華三大部(玄義・文句・摩訶止観)を顕しました。これを「文上読み」といいます。それに対して大聖人の法華経の読み方は、釈尊や天台の仏法ではもはや成仏することができない「末法の衆生」の救済を目的としたご本仏(上行日蓮)の境涯からの読み方で、これを「文底読み」といいます。これが「文上法華経」と「文底法華経」の違いです。
大聖人は「我が内証の寿量品」(観心本尊抄)と仰せられ、釈尊と天台の立場から読む「文上読み」と、大聖人の立場から読む「文底読み」を厳格に立て分けられています。
ではどのようにして大聖人は法華経を「文上脱益」と「文底下種」に区別し、末法の法華経たる「三大秘法の南無妙法蓮華経」を明示していったのか——順を追ってその概要を解説していきたいと思います。
【文義意の法華経】
「開目抄」と「観心本尊抄」は、御書の中で最も重要な御書とされていますが、日寛上人は『観心本尊抄文段』で「当抄において重々の相伝あり。いわゆる三種九部の法華経」と述べられています。
三種九部の法華経とは、
①「文義意の法華経」
②「種熟脱の法華経」
③「広略要の法華経」
という三つの法華経の総称で、その立て分けによって九種類の分別 (道理)が生じることをいいます。
日寛上人が「観心本尊抄」について日興門流に伝わる様々な相伝のなかの第一に「三種九部の法華経」を挙げられたのは、恐らくそれを通して大聖人の「文底下種・三大秘法の南無妙法蓮華経」が末法の法華経であることを私たちに理解させようとしたからではないかと考えられます。
大聖人は「妙法蓮華経の五字は、経文にあらず、その義にあらず、ただ一部の意なるのみ」(四信五品抄)と言われ、法華経を「文・義・意」に判別して、法華経の元意は「妙法蓮華経の五字」であることを示しました。これを「文義意の法華経」といいます。
「文の法華経」は一部八巻二十八品(経文)のこと、「義の法華経」はその文によって明らかとなる道理、義理のことで迹門方便品の「十界互具・十如実相」と本門寿量品の「発迹顕本・事の一念三千」の教理のことをいいます。
「意の法華経」は「文」と「義」の根源となる仏の「本意」(元意)を意味します。ただし、大聖人の言う「意の法華経」とは単なる妙法蓮華経の題目(経の題名)ではなく、文底下種・三大秘法の南無妙法蓮華経を指します。
大聖人はまず法華経「二十八品」(文)の教相を用いて、法華経の究極は天台の「一念三千」であり、その根拠は「方便品・寿量品」(義)にあることを示しました。
大聖人は「法華経を諸仏がこの世に出現した一大事と説かれるのは、この三大秘法を含めている経だからである」(三大秘法抄)と明言され、「意の法華経」(元意)とは三大秘法であり、本門の本尊(寿量文底の事の一念三千)であると結論しています。
「寿量品の自我偈に云わく「一心欲見仏 不自惜身命」云々。日蓮が己心の仏界を、この文に依って顕すなり。その故は、寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せること、この経文なり」(義浄房御書)と仰せの通りです。これが文底の「意の法華経」です。
【種熟脱の法華経】
次に「種熟脱」の三益については今年2月のオンスタで解説しましたから詳細は省きますが、種熟脱の法華経とは、「種の法華経」・「熟の法華経」・「脱の法華経」を分別することで、釈尊在世の「衆生」(熟脱)の化導と、末法の「衆生」(下種)の化導を立て分けることを意味します。
この三益(種熟脱)は法華経にきて初めて説かれた法門ですが、三益が説かれた意義は仏の化導の目的が「衆生の成仏」にあることを明らかにするものです。つまり、仏による衆生教化の過程を植物の成長に例え、これによって初めて仏の正しい化導の始終次第が明確になります。
法華経本門(文上)で釈尊の仏法(法華経)を信じた衆生は、五百塵点劫の大昔に既に妙法の下種を受け(本已有善)、長い歴劫修行を経て機根が「熟」されて、最後に釈尊がインドに出現して寿量品で「脱」すると説かれています。
要するに、脱益仏法とは五百塵点劫(久遠)に根本下種を受けたにもかかわらず、この「下種益」を信ずることができなかった衆生が、本果の仏である「熟脱」の釈尊に導かれて歴劫修行し、最後に法華経によって根本下種に却って得脱する(雖脱在現・具騰本種)
――これが文上法華経(脱益)の意味であり説相です。
大聖人は「いつ、いかなる仏法を種として修行したか分からないで、即身成仏や功徳の姿ばかりを論じても、それは何の役にも立たない」(開目抄)と明言しています。
別の言い方をすれば、大功徳に満ちた自身の人生を本当に願うのであれば、御本尊を信じて唱題行に励まなければ、その願いは絶対に叶わないということです。
その上で大聖人は「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。ただし、彼は脱、これは種なり。彼は一品二半、これはただ題目の五字なり」(観心本尊抄)と言われ、釈尊在世の衆生(本已有善)に対する純円の法は「文上脱益の一品二半」、末法の衆生(本未有善)に対する純円の法は「題目の五字」となり、脱益と下種益では「教法」(化導)に違いがあることを教示されました。これが文底の「種の法華経」です。
大聖人は天台の法華文句の文(本已に善有り・・・)を引用して、「今は既に末法に入って、釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権教と実教で成仏する機根の人は皆尽きてしまった。今こそ彼の不軽菩薩が末法に出現して、毒鼓を打つべき時なのである」(曽谷入道殿許御書)と言われています。つまり、今は末法の衆生(本未有善)を救済する時なのだから、権実を説いてから脱益に導いた化導はせず、不軽菩薩が妙法(二十四文字の法華経)を説いて逆縁を結んだように、ただちに妙法(三大秘法の南無妙法蓮華経)を説いて下種すべきであるという意味です。
大聖人は「しかるに、各宗の学者は末法という〝時〟と、衆生の〝機根〟とに迷い、小乗教や権大乗教を弘通し、あるいは文上脱益を説いているけれども、題目の五字をもって一切衆生を下種とすべき由来を知らないのである」(同抄)と諸宗の学者の無知を破折されています。要するに、大聖人は法華経(文上)の教相から一歩も離れず「不軽菩薩」の姿を借りて本因下種の化導を説明し、末法の根本下種は三大秘法の南無妙法蓮華経であることを証明されているのです。
【広略要の法華経】
三種九部の最後は「広略要の法華経」です。これについて大聖人は「一部八巻二十八品を受持・読誦し、随喜・護持等するは広なり。方便品・寿量品等を受持し、乃至護持するは略なり。ただ一四句偈、乃至題目ばかりを唱え、となうる者を護持するは要なり。広・略・要の中には題目は要の内なり」(法華経題目抄)と教えられました。
つまり「広の法華経」は一部八巻二十八品を受持・読誦すること、「略の法華経」は方便品と寿量品の二品を受持・読誦すること、「要の法華経」は題目を唱え、唱える行者を護ることであるという意味ですが、大聖人は「日蓮は広・略を捨てて肝要を好む。いわゆる上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(法華取要抄)と断言されています。
「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」とは、釈尊から上行菩薩に結要付嘱された妙法五字であり、その意味するところは、本門の本尊を護持し、本門の題目を唱えることです。これが文底の「要の法華経」です。
【まとめ】
それでは一度、これまで解説しきたことを図表してまとめていきたいと思います。
まず、三種九部の法華経の第一は、
①文義意の法華経
「文」法華経一部八巻二十八品 (文上脱益)
「義」方便品(理の一念三千)と寿量品(事の一念三千) (文上脱益)
「意」三大秘法の南無妙法蓮華経 (文底下種益)
そして第二は、
②種熟脱の法華経
「種」末法の本未有善の衆生の化導 (文底下種益)
「熟」在世の本已有善の衆生の化導 (文上熟益)
「脱」在世の本已有善の衆生の化導 (文上脱益)
最後の第三は、
③広略要の法華経
「広」法華経一部八巻二十八品 (文上脱益)
「略」迹門の方便品・本門の寿量品 (文上脱益)
「要」久遠名字の南無妙法蓮華経の題目 (文底下種益)
以上が三種九部の法華経の意味です。
冒頭でも言いましたが、日寛上人は大聖人の御書を根本として、「末法今時において、衆生が受持すべき大法(末法の法華経)は、広略要の『要の法華経』、文義意の『意の法華経』、種熟脱の『種の法華経』であり、それは大聖人が建立された三大秘法を受持することである」(趣意、撰時抄愚記)と言われています。
このように大聖人は「法華経」の教相を根本として、法華経を三種九部に判別し、「文上脱益」と「文底下種益」を厳格に立て分け、天台の解釈を用いて末法の法華経である「三大秘法の南無妙法蓮華経」を明示していきました。
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)とある通りです。
話は変わりますが、創価学会は創立以来、「ご本尊」と「御書」を根本として、三代にわたる「師匠」を中心に広宣流布の戦いを開始しました。牧口先生は「羊が千匹いても、一頭の獅子にはかなわない。獅子がくれば、羊はすぐに逃げてしまう。臆病な小善人が千人いるよりも、勇気ある大善人が一人いれば、大事を成就することができる。人材は数ではない」(1994年5月7日「5.3記念の集い」)と叫ばれ、戸田先生は「信心は大聖人の昔に帰れ、教学は日寛上人の時代に帰れ」と教学に対する厳格な指導を残されました。池田先生はその先師のご指導のままに世界192カ国地域に文底下種仏法(日蓮仏法)を宣揚しました。
どんな時代になろうとも、この三代に流れる「ご指導」と「学会魂」だけは絶対に変えてはいけないと確信します。教学研鑽は、あくまでも正しい信行のあり方を学び実践するためであり、自身の成仏(絶対的幸福境涯)と広宣流布のためです。そのことを夢寐にも忘れず、これからも皆さんと共に大聖人の仏法を学んでいきたいと思います。
以上で終わります。ありがとうございました。