【投書】戦うとは?

投書者:カナリア
5月7日付東京新聞に、「視点」私はこう見るというコラムがあった。「治安維持法の施行100年」を題材にしている。
稀代の悪法といわれた「治安維持法」は1945年8月の敗戦後、すぐに廃止されたわけではなかったらしい。連合国総司令部(GHQ)は廃止を求めたが、戦後処理に当たった東久迩内閣は受け入れず、総辞職。後継の幣原内閣によってようやく10月に廃止されたとの事。その後も「治安維持法は必要だった」とする論調は消えなかったという。筆者は記す。「恐ろしい。この法律も、この稀代の悪法を良しとする考えも」と。
「権力者が思想や信条、言論や報道の自由を脅かし、意に沿わない者を迫害する社会云々」・・ここまで読んで、はてな?と私は思った。
「今がそうなのでは?」と。
自由の国アメリカではトランプ旋風が吹き荒れている。イスラエルがパレスチナの人々を5万人以上も殺している。これは戦争の名を借りた「虐殺」に他ならない。これに抗議する学生たちに「反ユダヤ主義」のレッテルを張り、迫害する。
しかし一方、数千億円規模の補助金を打ち切られても、ハーバード大学は挫けず声を上げ戦っている。私たちはこの姿に共鳴の意を表し、ここに希望を託すしかないのではないか。
我が日本国に於いても、日本学術会議の法人化案が昨日9日、衆院内閣委で自民・公明・維新の賛成で可決された。「日本学術会議」は敗戦から4年後、この国が文化的で平和な国として再起するために創設された。政権には耳の痛いことも提言し、軍事研究とは一線を画してきた。それを疎む自公政権は菅内閣の時、6名の会員候補の任命を拒み、政権に都合の良い、組織に変えようとしている、そして今回可決の「法人化案」を進めているのである。
関連して言えば、自民党の裏金議員西田昌司氏の「ひめゆりの塔」(沖縄県糸満市)に関する歴史修正主義を彷彿とさせる発言。多くの良識ある人々の抗議によって、この発言は撤回されることになったが、事実を捻じ曲げる似非保守派的な動きは絶えることがない。
(あろうことか公明党は、7月の参院選京都選挙区に於いて、西田昌司の推薦を決めている)
最後に筆者は「批判や異論を圧殺した治安維持法が消えて80年。しかし、その病根が、今なおこの国に巣くうのを痛感する」と締めくくっている。
世界も日本も、そして創価学会も、大きな転換点に差し掛かっている。この様な時だからこそ自分の立場で、自分のやり方で戦うべきだと思う。声を上げるべきだと思う。人間のための理念・哲学、なかんずく、日蓮仏法の真の人間主義が、今ほど必要とされる時はない。