原田教学部長の「だまし講義」を破す!(2025年3月度 オンラインスタディより)

※昨日開催されました3月オンラインスタディ講義原稿を以下掲載させていただきます。

原田教学部長の「だまし講義」を破す!

伊東浩

先般、自活メンバーの一人である「遠藤洋和」さんは、原田教学部長による「教授講座」の破折論文を発表し、自活サイトに掲載されました。https://jikatsu.net/79581/

論文のなかで遠藤さんは、「教授講座における最大の問題点は、誤った『大聖人観』『本仏観』である。」(論文)とし、「原田教学部長はその点について概ね三つの観点から解説をしている。」(論文)と指摘しています。
その解説に対する反論として御書と池田先生のご指導を通し、「現学会教義がいかに仏法破壊の大謗法の邪義である」(論文)か、また「『教学要綱は池田先生の監修を得た』との文句も、真っ赤な大ウソであった」(論文)ことを、見事に論証したすばらしい論文となっています。

それに続いて、先日も自活メンバーの一人「いっこく堂」さんによる見事な「原田講義」への批判論文が掲載されました。
https://jikatsu.net/79668/

この二つの論文をまだ読まれていない方のために、ここでは具体的に原田氏の講義を検証し、上記論文と重複するところもありますが、再度その誤りを解説していきたいと思います。

原田氏は講座の冒頭、学会の教学部教授の「使命」と「役割」の二点を挙げて、「学会の教学は実践の教学」(教授講座)であり、「信行学で言えば、この信と行を深めていくための教学」(教授講座)であると教授の実践すべき使命を語り、「どこまでも広宣流布のための教学です。日蓮大聖人と学会員を、また創価の三代会長と学会員をつなげるための教学こそ、本当の教学であります」(教授講座)と、教授の為すべき役割を解説しています。

講座の教材である「開目抄」講義では、まるで池田先生の「開目抄講義」を丸写し(コピー)したような解説をしています。
(※1下記【参考資料】)

ところが「三徳具備の真実の教主」「末法の御本仏」という重要な箇所になると、原田氏は先生の講義を使わずに、「このご文を踏まえて、私たち創価学会では日蓮大聖人を末法のご本仏であると拝しています。」(教授講座)などと結論だけをさらっと言って、肝心な「末法のご本仏」の真意については「教学要綱」に沿って解説するという、実に巧妙で自分たちに都合のよい先生の指導だけを利用した刷り込み仕掛けの「だまし講義」となっています。

原田氏が底本としている先生の『開目抄講義』には、明確に「大聖人こそが末法万年にわたる三徳具備の『人本尊』(ご本仏)である」(※1)とご指導されているにも関わらず、原田氏は、あたかも先生の講義に沿って解説しているように装いながら、肝心要の「末法のご本仏」の段になると、『教学要綱』の「大聖人は、法華経の行者という使命に立ち、釈尊から『法華経』の肝心である『南無妙法蓮華経』を託された地涌の菩薩であるという自覚を持って」(p94)との邪説を披露した上で、『男子部教学室論考』の「日蓮大聖人は、釈尊を根本の仏として最大に敬い、その教えを正しく拝したうえで、釈尊から滅後悪世の弘通を託された上行菩薩の使命を自ら果たし、御自身が覚知した『法華経』の肝心である南無妙法蓮華経を末法の人々を救う法として確立をしてくださいました。そこには、明確に「釈尊―『法華経』―日蓮大聖人」という仏法の正統な系譜を見いだすことがでます。釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、そこにどちらが本仏か迹仏かといった上下関係や勝劣関係があるわけではありません。」との邪義をそのまま読んで解説しています。

しかし、原田氏の間抜けなところは「いっこく堂」さんが指摘しているように、「南無妙法蓮華経が一方では『釈尊より託された』といい、一方では『ご自身が覚知した』ものだという。いったいどっちなのか?」(いっこく堂論文)との大きな矛盾をはらんでいることを原田氏自身が気付いていない教学力の未熟さにあります。全国教学部長ともあろう人物が自分で講義をしておいて、この矛盾に気が付かないとは原田氏の程度が知れるというものです。
要するに、原田氏の卑劣で姑息なところは、自分たちにとって都合の悪い池田先生の指導は隠し、「教学要綱」の内容があたかも池田先生が監修されたものであり、これが本来の学会教義であると言わんばかりの会員を欺く「だまし講義」になっていることです。

「教学要綱」「男子部教学室論考」の破折については、すでに自活サイトに掲載されているのでここでは省略します。
男子部教学室文書への反論【1】https://jikatsu.net/78941/
男子部教学室文書への反論【2】https://jikatsu.net/78944/
男子部教学室文書への反論【3】https://jikatsu.net/78960/

また原田氏は、日蓮正宗(日顕宗)の教学に事寄せて、「このご本仏という表現には、日蓮大聖人が根本の仏であり、久遠実成の釈尊もこの垂迹、仮の姿であるという意を含んでいるのですけれども、まあ、実はこれは大聖人の御書には見られない解釈なのであります。」(教授講座)と解説し、まるで「日蓮本仏論」を否定した言い方になっていますが、大聖人の御書の中には「日蓮本仏論」を伺わせる御文が数多く散文されています。(※2下記【参考資料】)
さらに、遠藤氏も論文のなかで指摘しているように、池田先生は「法華経の智慧」で明確に大聖人こそが「無始無終の仏」であり「根本の仏」であることをご指導されています。

「どこまでも広宣流布のための教学」「日蓮大聖人と学会員」「創価三代会長と学会員」をつなげるための教学こそ本当の教学である(教授講座)と自分で言っておきながら、自ら率先して両者(大聖人と先生)と会員を離別させようとする講義自体、会員を欺く自語相違の「だまし講義」です。これでは学会本部に抗議の電話が殺到するのはむしろ当然であり、原田氏の責任は重いと言わなければならない。

さらに原田氏は、法華経に説かれる上行菩薩の付属について、池田先生の「生死一大事血脈抄講義」(2008.2.11発行)から、「単なる仏から菩薩への付属ではなく、仏法の大転換、そして教主の交代を意味しています。」(p188)との切文を利用して次のように解説しています。「日蓮大聖人は末法の人々を成仏に導くために、釈尊に代わる末法の教主として、成仏の根本法である南無妙法蓮華経を三大秘法として説き示し、末法万年にわたる人類救済の法を確立されたのであります。そのことをもって、創価学会では日蓮大聖人を末法のご本仏と仰ぐのである。」(教授講座)と。

これもまた「教学要綱」(第四節)に沿った解説であり、原田氏は池田先生の真意とはまったくかけ離れた説明をしています。
これでは、いっこく堂さんの指摘の通り、「何故教主の交代が必要であったか」「何故釈尊ではダメなのか」という説明にはなっていません。

「血脈抄講義」における池田先生のご指導は次の通りです。

「釈迦・多宝から上行に付嘱された法として南無妙法蓮華経を修行すべきことを結論として強調されていることには、さらに甚深の意義を拝することができます。それは、この付嘱が、『本果妙の仏から本因妙の仏へ』、そして『本果妙の仏法から本因妙の仏法へ』の大転換を意味しているということです。すなわち、これは、単なる仏から菩薩への付嘱ではなく、仏法の大転換、そして教主の交代を意味しています。そして、そのように拝したときに、ここで仰せの南無妙法蓮華経の深義が明らかになるのです。
『本果妙』の仏や教えは、ある意味で現実の人間を超えた仏の至高の境涯を指し示すものであり、その境涯がわからない現実の人間にとっては、結局、譬喩としての意味しかないことになります。これに対して、『本因妙』は、究極的な成仏の原因を説きあらわす仏や教法を指します。
原因は現実の人間の側にあるがゆえに、『本因妙』は、現実の人間に即して究極の成仏の因果を説く教えとなります。
まさしく、釈迦・多宝から付嘱を受けた上行菩薩は、現実の世界に現実の人間として出現する菩薩なのです。さらにまた、釈迦・多宝によって象徴される『本果妙の仏法』は、因の立場にいる現実の人間にとっては、はるか天空の本果を仰ぎ見るしかない教法です。それに対して、『本因妙の仏法』では、上行菩薩が先駆けて身をもって体現した『因果倶時の妙法』を弘めるのです。この『因果倶時の妙法』こそ、真実の『仏種』です。
釈尊も本来は、この『仏種』を悟り、成仏の因果を体現して仏になったと言えます。しかし、釈尊の名をもって説かれた多くの教法は、『仏種』そのものを説かず、本果を指し示す本果妙の仏法にとどまっています。
法華経の核心は、釈迦・多宝から上行への付嘱を説くことにあります。これは、法華経の理想であり仏の誓願である万人の成仏を実現するには、どうしても未来に、『本果妙』から『本因妙』への大転換がなされるべきであることを予言しているのです。このように法華経の付嘱の本質は、『本果妙から本因妙へ』という教主の交代と教法の転換を告げることにあります。」(p189~)

と。
このように池田先生は、「教主交代」の意味や意義、教主、教法共の優劣をはっきりとご指導されています。これが、原田氏が引用(利用)した指導における先生の真意です。

続いて原田氏は「大聖人の発迹顕本」について、学会がこれまで教えてきた〝大聖人は久遠元初の自受用報身如来の本地を顕した〟との表現は用いず、「大聖人が竜の口の法難を勝ち越えられた時に、宿業や苦悩を抱えた迷いの凡夫という迹、仮の姿を開いて、生命に備わる本源的な慈悲と知恵にあふれる仏の境地本地をご自身の身に表されたということであります。」(教授講座)と説明しています。
そもそも「久遠元初の自受用報身如来」とは、釈尊の「久遠実成」に対してより本源的な本地を意味しているのであって、そこには厳然と「優劣」があり、「久遠元初の自受用報身如来」こそがまさに「根本仏」なのです。
原田氏は「大聖人と釈尊に勝劣は無い」とする現在の学会教義と相違してしまうために、「久遠元初の自受用報身如来」との表現を意図的に用いないようにしているのです。

しかし、原田氏が底本としている池田先生の「開目抄講義」には、

「ここで『大聖人に目を開け』との呼びかけに当たる仰せをいくつか挙げてみたい。まず先ほど述べた『大聖人の発迹顕本に目を開け』に当たる御文は有名です。『日蓮といゐし者は・・・をぢぬらむ』(※発迹顕本の御文)、
まさに『大聖人の魂魄に目を開け』と仰せの御文である。ここで大聖人は、『竜の口の頸の座において凡夫・日蓮は頸をはねられた。今、佐渡で〝開目抄〟を書いているのは、日蓮の魂魄そのものである』と言われている。この『魂魄』とは、発迹顕本された御内証である『久遠元初自受用身』にほかならない。」(開目抄講義上p19)

「ここでは、大聖人が竜の口で発迹顕本されたことを示しています。『魂魄』とは、発迹顕本された大聖人の本地の御生命、即ち久遠元初自受用報身如来の御生命を意味します。この魂魄が佐渡の国に至り、まさに、この地から御本仏として末法広宣流布の指揮を執られていくという御境地を、今『開目抄』に認められていると宣言されているのです。」(開目抄講義下p14)

とある通り、池田先生は発迹顕本された大聖人の本地の境涯を「久遠元初の自受用報身如来」と明確にご指導されています。

原田氏の講義はそのほとんどが先生の「講義」を貼り合わせた「パッチワーク」講義であるにも関わらず、いつも肝心な部分になると、「仏の境地本地をご自身の身に表された」とか、「この大聖人の発迹顕本について『世界を照らす太陽の仏法』から先生の講義を学びます。」(教授講座)などと言って、先生の「久遠元初自受用身」に触れられていないご指導(大白蓮華2021.9月号)を利用し、意図的に池田先生の真意を伝えないようにしているのです。これでは池田先生と会員をつなげる「教授の使命」(教授講座)とはとても言えません。

原田氏は「教学を学んだとしても、その人自身の信行が深まっていかなければ学会の教学ではないということになってしまいます。」 (教授講座)と得意げに語っていますが、こんな筋の通らない(論理破綻)「だまし」講義を聞かされて、受講者の「信行」が深まっていくはずはなく、誰が聞いても原田氏の講義は「御書と池田先生」に違背したインチキ教学、師敵対講義であることは明らかです。

最後に原田氏は講義の終盤で「勝利の経典『御書』に学ぶ」(第二巻)からの引用文(※3下記【参考資料】)を紹介して次のように語っています。「この御文(「開目抄」我並びに我が弟子)は、全国、そして全世界の学会員の皆さんが我が身で読んできた一節であるということは言うまでもありません。この御文によって会員の境涯が深まって、また学会員が身で読むことによって、日蓮仏法の真髄が多くのメンバーの現証としても証明されたとも言えると思います。学会員の強さとは、様々な試練や困難に直面した時に、それをまことの時と捉え返して、信心根本に立ち向かって乗り越えてきたことだというふうに思います。」(教授講座)と。

原田氏は、めずらしく「現場で戦う会員」を正確に評価し讃嘆していますが、悲しいかな原田氏は愚かにも「自語相違」炸裂の講義、先生利用の「だまし」講義をしているために、自分で自分の頸をバッサリ切り落としていることすら気付いていないようです。

いったい彼は会員に何を伝えたかったのでしょうか——。誰に気を使っているかは知りませんが、「大聖人と学会員、創価三代会長と学会員をつなげるための教学こそ、本当の教学である」というならば、大聖人や創価三代会長に違背(師敵対)する「教学要綱」を直ちに是正し、それを学会教学の公式見解として発行させた原田氏の父「原田会長」に即刻、「教学要綱」の回収を命じるべきである。

以上です。ありがとうございました。

**********************
※1【参考資料】
【池田先生】開目抄全編の主題は、開目というこの題号に尽きているともい
えます。(中抜) 開目とは文字通り目を開くことです。(開目抄講
義上p10)
【原田氏】開目抄全般の主題については、開目という題号に尽きているとい
うふうに思います。開目とは文字通り目を開くことであります。

【池田先生】この下種の教法たる南無妙法蓮華経を唱えられる教主が、日蓮大聖人であられる。それゆえに、日蓮大聖人を末法下種の三徳、すなわち末法の御本仏と拝するのです。(開目抄講義下p194)
【原田氏】大聖人こそが、末法万年の一切衆生の成仏を実現するために、妙法弘通する末法の主師親の三徳を具備した真実の教主である、すなわち末法のご本仏であると見ることであります。

【池田先生】「開目」の意義として「大聖人に目を開け」の呼びかけとともに、「人間に目を開け」「民衆に目を開け」との熱い呼びかけがあることを明言しておきたいと思います。』(開目抄講義上p28)
【原田氏】その開目の本義とは、大聖人に目を開けという呼びかけとともに、人間に目を開け。民衆に目を開け。との呼びかけであるということであります。

【池田先生】当時の日本とは、法滅の国です。この日本国の諸人を救うことは、全人類の救済を可能にします。すなわち、日蓮大聖人こそが、日本国の諸人、再往は末法万年にわたる全人類の主師親の三徳具備の人本尊であられることを宣言されている一節にほかなりません。(開目抄講義上p50)
【原田氏】日本国とは、悪世末法の娑婆世界のことです。大聖人は末法の一切衆生にとって主師親三徳
の存在であるということを宣言されて、本抄を結ばれているのです。

※2【参考資料】
「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻をもって日蓮が頭を打ち」(下山御消息、新版299㌻)
「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。これを背かんことよ。」(一谷入道御書、新版1764㌻)

※3【参考資料】
「勝利の経典『御書』に学ぶ」(第二巻)より
「(我並びに我が弟子諸難ありとも……まことの時はわするるなるべし) この御文の身読が、創価学会の永遠の生命線です。常にこの御文に立ち戻り、前進していけば、私たちの信仰は不滅の輝きを放つからです。この御文の精神に照らせば、私たちが難に直面した時は、すべて『まことの時』です。三障四魔が競い起こった時も、自身の宿命転換の時も、広宣流布の活動の〝剣が峰〟の時も、『まことの時』に反転攻勢できる信心が不可欠です。その信心を私たちは、日々、大聖人から教わっているという自覚に立つことです。断じて『つたなき者』になってはならない。」

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