原田星一郎教学部長による教授講座を破す

創価大学28期 遠藤洋和

原田執行部は、2013年頃より学会教義の改変に着手し、これまで三代会長によって堅持、継承されてきた日蓮仏法の本義に基づく正当な学会教学を、あろうことか身延派教義に近似した全くの邪義に改悪し、2023年にはその集大成ともいうべき「創価学会教学要綱」が発刊された。ところが、1年以上が経過した今現在においても一般会員から幹部に至るまで大多数の人が読んでおらず(またはその存在すら知らない)、未だに会員は現学会が大規模な教義改変を行った事実を知らないというのが実情のようである。

そのような状況の中、先般原田星一郎教学部長による「開目抄」を教材とした教学部教授講座が開催された。「開目抄」は言うまでもなく「人本尊開顕の書」と称される重書であるが、現学会では「人法一箇」を否定し、「大聖人=人本尊」との意義を捨て去っているため、講座においても「人本尊開顕の書」との説明は一切無い。それどころか「教学要綱」を引用し、「大聖人は釈尊の使い」や「大聖人と釈尊の関係には上下・勝劣はない」など、原田教学部長自らが「釈迦本仏」を立てる身延派まがいの邪説を繰り返したため、「教学要綱」を読んでいない会員に反発と混乱をまねき、学会本部には抗議の電話が殺到する事態となったようである。

そもそも「教義(化法)」は宗教の根幹であり、不変なはずである。ゆえに池田先生は教学について、「今までやってきたことが間違っているとならないように」、「会員が苦しまないように」との精神で一貫されてきた。しかし原田執行部は、その師匠の意に反し「過去との整合性などどうでもいい」、「自語相違と批判されてもかまわない」などと放言し、師敵対など歯牙にもかけぬ強硬姿勢で教義改変を断行したために、多くの会員に信仰上の混乱を生じさせたのである。原田執行部の罪は計り知れないほど重い。

原田執行部が会員の犠牲を厭わず教義改変を強行した理由については、元全国副教学部長の須田晴夫氏が自著の「『創価学会教学要綱』の考察」の中で、「世界においては釈迦を上位に置いた方が創価学会が受容されやすくなるとの判断」(154頁)、「身延派などの僧侶を中心とするアカデミズムの意向を忖度していることをうかがわせる。」(156頁)等と指摘している。要するに、将来的な組織の維持(職員の生活基盤維持)のために「釈迦」を前面に打ち出すことで海外での布教を容易にしようとの目論見である。全ては執行部の保身のためであり、「信心」や「広宣流布」はおろか、会員の幸福や成仏など微塵も考えてはいないのである。しかも原田執行部は「教学要綱」発刊にあたり、「池田先生の監修」という名目のもと内部からの批判は問答無用で抑え込み、外部からの攻撃はその矛先がすべて池田先生に向けられるようにしているのである。先生や会員に対するこれほどの裏切り行為があろうか。

宗門問題の折、池田先生は次のように指導された。

『大聖人の教えを守り、弘める立場にありながら、かえって先師の教えをゆがめ、勝手に改変するとは――。まさに「天魔」のなせるわざであり、「師敵対」「七逆罪」という極悪の僧である、と。(中略)「師匠の死後、師敵対する人間は、どんな文証があっても、『それにはもっと深い意味があるのだ』などと言って、自己を正当化する」という行動パターンである。仏法上、師敵対の罪は重い。仏法の生命を殺すことになるからである。「私の師匠が何を書いていようと、今は私の言うことを聞け」と、自分の邪見を通そうとする。都合の悪い文証を出されると、「それは一面的な読み方。真意(至極)は別にある」とごまかす。(中略)

「師匠は入滅し候と申せども其の遺状候なり。立正安国論是なり」(編年体御書1731頁 新版2169頁)――師匠の大聖人は入滅なされたけれども、その遺された御書がある。「立正安国論」である――と。師匠なき今、師とすべきは大聖人の遺された「御書」である。御書の仰せのままにいけば、何を迷う必要があろうかと、根本の姿勢を教えられたのである。(中略)

「師敵対の人間は、師の教えを厳格に守っている人間を、かえって『外典読み』などと批判する」ということである。「外道に近い」「浅い読み方だ」との悪口は、いわば″自分こそ仏法の奥義(至極)を知っている″との増上慢の表れであろう。』(1991年10月 第一回アメリカ青年研修会)

まさに原田執行部の悪行そのものである。

今や天魔は原田執行部に憑りつき、会員を惑わして正法を破壊している。一部の熱心な活動家の中には、「(教学要綱は)池田先生が監修したのだから間違っていない!」「あなたの教学要綱に対する捉え方が間違ってるんだ!」などと感情に任せて豪語する者がいるが、この池田先生のご指導に照らせば、根拠もないのに自分の邪見を通そうとする者の方が天魔の眷属なのである。賢明な会員諸氏はこれらの凶悪な天魔の連中に絶対に騙されてはならない。

幸いにも今現在は、池田先生の日蓮仏法の本義に基づく教学指導などが厳然と存在しているため、先生のご指導と現学会の教義を対比すればいかに原田執行部が大聖人や池田先生に違背しているかを確認することができる。だがそれらの池田先生のご指導は、当然ながら現在の学会教学とは明確に相反する内容であるためそう遠くない将来絶版にされたり、ご指導の内容を改ざんされる恐れもある。池田先生のご指導を「文証」として留めておくためにも、今回の教授講座で展開された現学会の邪義を、池田先生のご指導を通して粉砕していきたい。会員諸氏には、ぜひとも自分自身の目で池田先生のご指導と現学会の主張を見比べ、その正邪をよくよく見極めてほしい。

今回の教授講座における最大の問題点は、誤った「大聖人観」「本仏観」である。原田教学部長はその点について概ね次の三つの観点から解説をしている。

1・日蓮大聖人が「根本仏」であり、久遠実成の釈尊は「迹仏」であるとの意は日蓮正宗の宗門教学であり、御書にはそのような意はみられないとする「日蓮根本仏否定」観。

2・日蓮大聖人は、釈尊を根本の仏として最大に敬い、その教えを正しく拝したうえで、釈尊から滅後悪世の弘通を託された上行菩薩の使命を自ら果たし、御自身が覚知した『法華経』の肝心である南無妙法蓮華経を末法の人々を救う法として確立をしたとする「大聖人は釈迦の使い」観。

3・釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、そこにどちらが本仏か迹仏かといった上下関係や勝劣関係はないとする「法先仏後および日蓮・釈尊の勝劣関係否定」観。

である。これらの観点に対し、池田先生の正しい「大聖人観」「本仏観」のご指導を「文証」とし破折していく。まず、池田先生による正しい「日蓮本仏観」についてのご指導を挙げる。

『池田 「宇宙と一体の無始無終の根本仏」を説くためには、二つの方法しかない。一つは、因果を無視することです。因とか果とか言わなければ、単に「無始無終の仏」と言っておけばすむ。因果を言うから、「仏果を得る前」が問題になるのだから。

しかし、因果を無視したのでは仏法ではなくなってしまう.因果を鋭くからこそ仏法なのであって、因果を無視すれば外道です。なかんずく「仏因」「仏果」が、仏法のメーンテーマです。大乗仏教そのものも、釈尊滅後、釈尊を仏にならしめた「仏因」は何だったのか、その探求がテーマだったと言えるのではないだろうか。

斉藤 はい。もはや釈尊がいない以上、釈尊を仏にした「仏因」をつかむことで、自分たちも仏になろうとしたと考えられます。

池田 言い換えれば、釈尊の生命の「本質」の探究です。その結果、さまざまなかたちで、″永遠性の仏″を説くことになった。

須田 「生身」の釈尊に対して、永遠性の「法身仏」を説いたのもそうですね。そこから、三身論(法身・報身・応身)をはじめ、さまざまな「仏身論」が議論されていきます。

遠藤 大乗仏教のさまざまな仏──華厳経の盧舎那仏、浄土経の阿弥陀仏(無量寿仏)、大日経の大日如来なども、「無始無終の根本仏」を志向しながら、その一面、一面を説いたと言えるかもしれません。

池田 しかし、どんなに″永遠性の仏″を説いても、そこには大きな限界があった。一つは、壮大で華麗な仏の世界を説く結果、「人間・釈尊」から大きくかけ離れてしまったこと。これは「人間」そのものからかけ離れてしまったことを意味する。もう一つは、今、論じている「因果」の問題です。「仏因」が先にあって、「仏果」が後に来るというのでは、どうしても、″何らかの時点で″仏が出現することになる。要するに、無始無終の仏を説くためには、「仏因(囚行)」に「仏果(果徳)」を認めなくではならないのです。これが、三世常住の本仏を示すうえでの第二の道であり、「唯一の道」です。

斉藤 理論的には、どうしてもそうなります。

池田 この「因位(仏因の位)の仏」──それが上行菩薩です。「因果倶時の仏」です。上行菩薩が出現しなかったならば、無始無終の本仏は示せないのです。上行菩薩の出現は、五百塵点劫という想像もつかない過去をも突破した「無始無終の久遠の本仏」を指し示しているのです。

須田 これまで、わかったつもりで、あいまいだったことが、かなりはっきりしてきました。この「無始無終の本仏」とは、私たちが「久遠元初の自受用報身如来」と呼んでいる「南無妙法蓮華経如来」のことですね。

池田 もちろん、その通りです。』(法華経の智慧 如来神力品)

日蓮仏法の本義に則った明快な御指導であり、この御指導に照らすだけでも現学会の教義が完全に誤っていることが一目瞭然である。池田先生は明確に「無始無終の本仏=久遠元初の自受用報身如来=根本仏=南無妙法蓮華経如来=日蓮大聖人」との正しい「大聖人観」「本仏観」に立たれている。

次に、先に挙げた現学会の大聖人に対する三つの観点について一つ一つ池田先生のご指導をもって粉砕していく。

1・「日蓮根本仏否定」観について

池田先生は、

『遠藤 釈尊が「仏の神力でも賛嘆し尽くせない」と言ったのは、長行では「此の経の功徳」であり、偈文では「受持の者(上行菩薩)」です。一方では「法」であり、他方では「人」ですが……。

池田 飛躍した言い方になるが、緒論から言えば、人法一箇の南無妙法蓮華経如来の功徳を賛嘆しているのです。「久遠実成の釈尊」も「上行菩薩」も宇宙の根本仏であられる南無妙法蓮華経如来の「迹(影)」です。南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙生命そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。その十界のうちの「仏界」を、法華経では「久遠実成の釈尊」と「多宝如来」として説き、南無妙法蓮華経如来の「九界」を「上行菩薩」等として説いたのです。同じ根本仏の己心の仏であり菩薩です。』(法華経の智慧 如来神力品)

『日蓮大聖人は宇宙一の偉人である。根本の仏である。』(2003年12月 海外・第二総東京代表協議会)

等、大聖人こそが根本仏であり、「久遠実成の釈尊」は根本仏に対してあくまでも「迹」であることを明確に教えられている。これらは当然、現学会の言うごとき偏狭な「宗門教学」などでは決してない。「人法一箇」や「久遠元初の自受用報身如来」とは、日蓮大聖人こそが末法の御本仏であることを明かすための根幹教義であり、仏法上の重要法門なのである。

2・「大聖人は釈迦の使い」観について

いくら言葉の上では大聖人を「末法の御本仏」と称したとしても、大聖人はご自身が根本の師と仰ぐ「釈尊」という「主人」から末法の衆生救済を託された「使い」の存在と意義付けている限り、誰が見てもその意は「釈迦(主)本・日蓮(従)迹」の「釈迦本仏論」ではないか。悩乱の執行部には分別がつかないのかもしれないが、池田先生はこの点についても次のように明快にご指導くださっている。

『外用浅近の立場からすれば、日蓮大聖人は上行菩薩の再誕である。大聖人は、法華経神力品において、本化地涌の菩薩の上首として、末法における妙法弘通の別付嘱をうけられました。そして、末法に生をうけられた大聖人は、法華経の予言どおり、妙法を弘通されたのであります。しかし内証神秘の立場から論ずれば、大聖人はまぎれもなく久遠元初の自受用報身如来であられます。大聖人の悟りの生命は、久遠実成の釈迦を遥かに越えた久遠元初の本地の境地そのものなのであります。もし大聖人が単なる釈迦仏の使いであるとすれば、釈迦仏法の力が消滅する末法の世に出現されても、何の意味もないことになってしまうでしょう。』(百六箇抄講義)

『「遣使還告」とは、釈尊滅後の弘教を担う地涌の菩薩のことなのです。仏の教えが隠没した末法濁世に、さっそうと登場し、妙法という「是好良薬」を弘めゆく、希望のメッセンジャーなのです。大聖人御自身、一往・文上の御立場では、この地涌の菩薩のリーダーである上行菩薩の再誕として、妙法弘通に挑まれました。しかし再往・文底では、大聖人こそ、末法万年の民衆を救う南無妙法蓮華経の「大良薬」を残された御本仏であられることは言うまでもありません。』(池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義)

日蓮大聖人が「末法の御本仏」であられることの仏法上の意義を極めて明瞭にご指導くださっている。大聖人は「久遠実成の釈尊」よりも、より本源的な立場である「久遠元初の自受用報身如来」である。妙法の体は一つであるが、化導において「因」「果」「種」「脱」に分かれるのであり、発迹顕本の意義もここにある。これが正しい法門の筋目であり、文上の法華経に固執する身延派等との決定的な違いである。故に池田先生も身延派等が説く「大聖人は釈迦仏の使い」などの解釈を厳然と否定されているのである。原田執行部は、これら法門の筋目が理解できないから、「教学要綱」の内容も全て「大聖人は釈迦仏の使い」などの結論のみに終始しており、肝心のそこに至る法門上のプロセスが存在しない。要するに根拠のないでっち上げ法門なのである。

3・「法先仏後および日蓮・釈尊の勝劣関係否定」観について

現学会は「人法一箇」を否定し、南無妙法蓮華経を単なる「法」と捉えて「釈尊も大聖人も南無妙法蓮華経によって成仏した」との「法先仏後」思想に立ったが、この錯誤こそが教義を誤る根本原因になっている。この点についても、池田先生が厳然とご指導くださっている。

『池田 法と人(仏)は本来、不可分なのです。「如来」というのも「如(真如・真実の世界)からやって来たもの」ということです。すなわち「如来」とは、真実の「法」が現実の上に表れたのです。宇宙生命に″人″の側面と″法″の側面があり、それが一体なのです。少しむずかしいかもしれないが、大事なところなので、もう少し言っておこう。釈尊の説法に「法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る」(相応部経典(犍度篇)「長老品・跋迦梨」)という言葉がある。法を体得すれば釈尊に会うことができ、釈尊に会えば法を悟れるという意味です。「我を見る」の「我」とは、根本的には「永遠の法」と一体となった「永遠の仏」です。寿量品では、永遠なる「常住此説法(常に此に住して法を説く)」(法華経489頁)の仏身を説く。文上の法華経では、五百塵点劫以来の「久遠実成の釈尊」のことだが、その指向しているのは無始無終の「久遠元初の仏」です。釈尊が悟った「永遠の法」即「永遠の仏」は、あらゆる仏が悟った「永遠の大生命」であった。過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じく「久遠元初の仏」を師として悟ったのです。

それが久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経如来です。戸田先生は言われた。

「日蓮大聖人の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのです。これを久遠元初といいます。始めもなければ、終わりもないのです。大宇宙それ自体が、大生命体なのです」と。無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を「師」として、「人間・釈尊」は人間のまま仏となったのです。そして、悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の「永遠の仏」を師として仏になったのだとわかったのです。』(法華経の智慧 如来寿量品)

ご指導の通り、そもそも根本の法と根本仏(久遠元初の自受用身)とは一体不離であって、法即人、人即法の人法一箇とは大聖人の仏法の極説である。あたかも大聖人御出現以前から南無妙法蓮華経なる「法」が存在し、釈尊や大聖人もその「法」によって成仏した(法先仏後)かのように認識しているが、真逆である。かくいう「法」は、単なる「理体」であって、我々衆生には見ることも触ることもできず、まして功力の作用など起るはずもない。「理」をいくら「事相」として曼荼羅に顕しても絵に描いた餅に過ぎないため功徳もない。南無妙法蓮華経は正しく人法体一の「仏身」なのである。妙法は仏の「智慧」に厳然と具わるのであり、その「日蓮がたましい」という「事」をそのまま「事」(御本尊)として顕すがゆえに御本仏の生命と衆生の生命が境智冥合でき、御本尊の力用も厳然と顕れて衆生を利益するのである。つまり大聖人を外して南無妙法蓮華経も何も無いのである。

ついでに指摘しておくと、原田教学部長も「南無妙法蓮華経」を単なる「法」としか理解していないようであるから、ついつい講座の席上「成仏の根本法である南無妙法蓮華経を三大秘法として説き示し」などと口走っているが、この点も大きな誤りである。池田先生は、

『御本尊それ自体が本門の本尊であり、御本尊を信受し唱える題目は本門の題目、御本尊所住の所が本門の戒壇でありますが、この三大秘法も、究極するところは「観心の本尊」の一大秘法に収まることを知らなければなりません。』(諸法実相抄講義 池田大作全集第24巻)

と、あくまで人法体一の南無妙法蓮華経如来の仏身、つまり事の一念三千である御本尊こそが「一大秘法」であり、この「一大秘法」に本門の題目、戒壇を具備し、三大秘法と開かれるのであって、本尊なくしては題目も戒壇もないという正しい三大秘法義を教えてくださっている。原田氏が言う「南無妙法蓮華経という法を三大秘法として説」くなど三大秘法義を全く理解できていない大辟見である。

次に、「大聖人と釈尊の関係に勝劣はない」との邪説についても池田先生は、

『「月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝まされり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」(全集589頁 新版747頁)月は光が弱く明らかでない。釈尊在世の法華経の説法は、ただ八年である。太陽は光明が月よりまさっている。これは太陽の仏法が末法五の五百歳の長い闇を必ず照らしていく瑞相である――と。月と太陽の光の強弱によせて、釈尊の仏法と大聖人の仏法との勝劣を述べられた一節である。』(1987年12月 東京各区合同記念幹部総会)

『南無妙法蓮華経を悟った境地こそ、あらゆる仏の本地です。その生命自体が、仏の本体であり、本仏なのです。南無妙法蓮華経の仏すなわち「南無妙法蓮華経如来」が文底の「本仏」なのです。この南無妙法蓮華経如来」が文底の「如来秘密」となります。そして、久遠実成の仏による永遠の衆生救済の働きも、南無妙法蓮華経の働きととらえられます。これが、文底の「神通之力」です。したがって、文底では、南無妙法蓮華経が本仏であるのに対して、釈迦・多宝などの一切の諸仏は、南無妙法蓮華経の働きを表した迹仏となります。』(池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義)

等と、大聖人と釈尊の関係には厳然たる勝劣があることをご指導くださっている。そもそも、大聖人と釈尊に勝劣が無いのであれば、「釈迦仏」を拝んでも問題ないことになってしまうではないか。現学会教義は「因果」や「本迹」「種脱」などの相違、勝劣がまるで不明な矛盾と背理だらけの稚拙な創作教義なのである。

そういえば先日、学会公式サイトに「男子部教学室論考」が掲載され、そこに「創価学会においては、釈尊も日蓮大聖人も「拝む対象」ではない。」との一文があった。

https://www.sokayouth-media.jp/answer/2825023.html

いくら「人本尊」を否定しているからとはいえ、よくぞここまではっきりと断言してくれたものだ。筆者周辺の複数の活動家もこの一文を目にした際、「さすがにそれはおかしい」と皆一様に動揺を禁じ得ない様子であったが、おかげで何人かのメンバーは現学会の誤りに気が付き、正信に立ち返ることができた。

大聖人は御本尊について、

『日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え。仏の御意は法華経なり、日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』(経王殿御返事 全集1124頁 新版1633頁)

『本尊とは、法華経の行者の一身の当体なり』(御義口伝 全集760頁 新版1059頁)

『一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり』(草木成仏口決 全集1339頁 新版1779頁)

等と説かれ、池田先生も

『私どもは、御本尊即、生身の日蓮大聖人と拝するのみであります。』(観心本尊抄講義 池田大作全集第24巻)

『私たちは、柔和質直の信心によって、この御本尊を大聖人の尊極の御生命なりと拝する。この信心、求める心があってこそ、御本尊即大聖人の御生命を己心に見ることができる。』(池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義)

等と御指導くださっている。

末法における「観心(信心)の本尊」の「観心」とは、本尊を拝む我ら衆生の観心を指す。正しい「観心」とは、御本尊即日蓮大聖人と拝せる信心である。「大聖人は拝む対象ではない」などの誤った教義を信じ、その誤った「観心」でいくら御本尊を拝しても、御本尊への敵対行為となるため断じて功徳などないのである。

以上のとおり、池田先生のご指導、御書に照らし、現学会教義がいかに仏法破壊、大謗法の邪義であるかが証明された。同時に、彼らが金科玉条のように掲げる「教学要綱は池田先生の監修を得た」との文句も、真っ赤な大ウソであったことが証明されたのである。

池田先生は、

『器いっぱいにたたえられた清水も、毒物を一粒いれたら、もう飲むことはできない。妙法はあまりにも清らかな法であるゆえに、謗法へのいささかの妥協も許されない。個人の信心においても、大聖人は「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし漆千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」──いかに法華経を信じておられても謗法があれば必ず地獄に堕おちる。それは、あたかも千杯のウルシがあっても、カニの足一つを入れたら、すべて効力を失ってしまうようなものである──と厳しく御指南しておられる。広布の世界もまた、いささかの濁りも許されない。妙法の信心を永遠に純粋に伝え、広めていかねばならない。ゆえに謗法・反逆とは妥協なく戦わざるをえない。また、そうした悪の存在は外に出てもらった方が、ありがたいのである。日興上人がお示しのごとく、ここに大聖人の仏法の、絶対に平等にして、厳粛なる″法の世界″がある。』(1988年9月 第三回全国婦人幹部会)

と御指導されている。

会員諸氏にあっては、一刻も早く悪しき組織信仰から脱却し、池田先生直結の正しい信心の道を進むべきである。原田執行部に乗っ取られ、教義もねじ曲げられて邪教と化した組織に追従しても、もはや成仏など絶対に適わないのだから。

原田星一郎教学部長による教授講座を破す” に対して1件のコメントがあります。

  1. モッコス より:

    遠藤さんの 良くまとめられた労作、有難く拝読しました。
    徹底して、出典を明記した池田先生の指導でもって原田ら執行部側の言い分に破折を加えてあるので、創価学会員諸氏も傾聴せざるをえないでしょうし、対話の資料として大変有効だと思います。

  2. 遠藤 より:

    モッコス様
    コメントありがとうございます。
    励みになるお言葉本当にありがとうございます。
    引き続き少しでも皆様のお役に立てるよう一層努めてまいります。
    今後ともどうぞよろしくお願い致します。

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