【投書】「法華経の智慧」に学ぶ!

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投書者:カナリア

「法華経の智慧」(全六巻)が、大白蓮華誌上に掲載されたのは、30年前の2月からであった。以来、先生は4年半にわたって、仏法の深遠な法理を語り、残して下さった。そして今、師の教えに反し、日蓮仏法の真髄をズタズタに壊そうとしている原田学会執行部。

そうした局面であるからこそ、「法華経の智慧」を学び直そうと、私は7回目の読了に挑むことにした。浅学な自分ではあるが、読むたびに、仏法の深い哲理に感動し、感謝の念を覚えるのである。今回まずは冒頭、以下の場面を紹介する。

『池田先生:ともあれ学会は、生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。「仏とは生命なり」―。戸田先生の悟達に、創価学会の原点があったのです。

遠藤:かつて宗門が、戸田先生の「悟達」という表現に難癖をつけてきましたが、在家に、悟達されると、よほど都合が悪いのでしょう(笑い)

斎藤:仏法を信奉しながら、悟ったらいけないというのは、大学に入って卒業してはいけないというようなものですね(笑い)。妬みでしかない。

須田:「仏とは生命」―。「生命」という言葉には、科学的で、しかも温かみのある響きを感じます。

池田先生:そこが実は、戸田先生の偉大なところです。「仏」というと、人格的な面が表になる。それだけでは、どこか自分とかけ離れた存在というイメージが伴う。また、「法」というと、法則とか現象とか、非人格的な面になる。それだけだと、あまり温かみはない。
本来、「仏」も「法」も別々のものではない。「生命」といった場合には、その両面が含まれる。』
(法華経の智慧)

この引用部分だけをとっても、「人法一箇」を否定しようとする、原田執行部の「誤り」が明確なのである。(組織に温かみがなくなるのは当然なのである)
御本尊の相妙を見るに、中央には「南無妙法蓮華経 日蓮」とある。御義口伝には、南無とは梵語であり、「帰命」を意味すると説かれている。梵語とはインドの言葉である。
「妙法蓮華経」=「法」であり、「日蓮」=「人」である。当時の梵語・漢語(中国)・日本語の三つの語は全世界を意味する。全人類にとっての「生命の実相」を具現化されたのが、日蓮大聖人のご図顕された御本尊なのである。

一大秘法を「御本尊」から「題目」に変更してしまった原田執行部。釈迦本仏論に傾斜・転換するためには、根源仏としての「日蓮」は邪魔な存在なのであろう。
仏・法・僧の三宝のなかで、「法宝」と「僧宝」を明らかにに変更しているにもかかわらず、「教義の変更はしていない」と、嘘の強弁で誤魔化そうとする原田学会に、最早一片の正統性もない。

ある方が、X上で日蓮大聖人の御書、「妙法比丘尼御返事」の御文を以下を引かれていた。
「謗法と申す罪をば我もしらず人も失とも思わず、但仏法をならえば貴しとのみ思いて候程に、此の人も又此の人にしたがう弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(P1408)

2023年11月18日発刊の「創価学会教学要綱」以来、明らかに局面は変わったのである。

先生亡き後、誰がその精神を引き継ぐのか?また、「師敵対」は誰か?仏法は厳しい。

「ボーっと信心してるんじゃねーよ!」まさに、NHKの番組、チコちゃんに叱られるではないか。

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