上座部仏教について

投稿者:モッコス

宮田幸一氏は、須田晴夫氏への批判 ―― 【日寛の日蓮本仏論と異なる独自の本仏論を立てる須田氏】―「①日蓮本仏論はカルトの理由となるか」について―― の中で:

【引用】 「日蓮=“釈迦を超越した根源仏(久遠元初自受用身)”という議論は、須田氏はどう考えているのか分からないが、少なくとも釈尊を仏として崇拝している上座部仏教においては、異端の議論として、批判を受けるであろう。」

【引用】 「上座部仏教から見れば、“釈迦仏を正像時代の本仏とし、日蓮を末法の本仏とする立場”である日蓮本仏論すらも受け入れがたい異説と見なされ、上座部仏教の影響力の強いタイやミャンマーでは、日蓮本仏論についての説明の工夫が必要となろう。」

というように、「原始仏教」、「初期仏教」研究に影響を与えた上座部などの南伝仏教から「異端」「カルト」扱いされることを しきりに気にしているようである。

 現在、南伝(上座部)仏教は、スリランカ、タイ、ミャンマー、などの東南アジア各国で多数派の宗教となっており、社会の慣習に深く根付いていると言われている。

日蓮大聖人が、
「夫れ、仏法をひろめんとおもわんものは、必ず五義を存して正法をひろむべし。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり。」(顕謗法抄 御書新版 p.499)
と仰せのように、弘教においては「五義」(=宗教の五綱)を心得て 各国・地域の事情に応じた配慮をしていくことは当然である。

■  その上で、南伝(上座部)について一つ確認しておきたいのは、修行者の中から焼身自殺をはじめとする自殺者が少なからず出ていることである。
有名な例では、1963年にベトナムの仏教僧 ティック・クアン・ドックが当時の政権に抗議して焼身自殺を行い、その自殺の映像が世界中に報じられて衝撃を与えた。
日本記者クラブの田中信義氏は、ティック・クアン・ドックの焼身自殺の後、抗議の手段としての自殺が「日常的」に多発したことを伝えている:

【引用】 「チック・クアン・ドック師の焼身自殺のニュースはたちまち世界中に広まった。 炎を全身に浴びた写真はショックだった。
これをきっかけに僧侶の焼身自殺は体制の圧政に対する抗議を示す手段として日常的となり 僧侶たちも事前に焼身自殺があるから取材するように予告の電話をかけてきた。
それっとばかりプレスがあわてて現場に駆けつけるなど異常な光景が見られたものだった。」 (田中信義『私とベトナム④ 焼身自殺と車』2011年8月 日本記者クラブ・取材ノート)

池田先生はトインビー博士との対談で、ベトナム僧の焼身自殺の思想的背景として、南伝仏教の「肉体を不浄なものとする見方」があったことを指摘されている:

【引用】 「焼身自殺をしたベトナム僧の場合を考えてみますと、自殺による抗議という政治的動機があったとはいえ、思想的背景としては、彼らの実践する南伝仏教のなかに、肉体を不浄なものとする見方があったといえるでしょう。」 (池田・トインビー対談『二十一世紀への対話』第5章 10「自殺と安楽死」 )

釈尊が「不浄」観を説いたのは もとより煩悩を取り除く修行のためであったが、弟子たちの中に肉体・身体を忌み嫌う傾向が生じたようである:

【引用】 「仏が不浄観を説いたのは、比丘たちが肉体の不浄を観想す ることにより煩悩・欲望を取り除き、『大果大福利を得ん』と して解脱を目指させようとしたものである。
しかし不浄観を修した比丘たちが自分の身体を厭うようになり、比丘たちの間で自殺する者が続出した 。」 (笹森行周 「仏教に於ける生死観」・北海道暫学会 ・北海道大学哲学会共催シンポジウム 《宗教と生命倫理》 )

【引用】 「不浄観は、肉体の不浄を観じて煩悩を取り除く修業であり、本来は自殺に結び付くようなものではない。
しかし、前述したように、肉体を滅することによって初めて完全な涅槃に至るという無余涅槃の考え方が生まれ、捨多寿行が拡大解釈されるなどの風潮から、不浄観の実践が死への傾斜をもっていったのではないかと考えられる。」(陣内由晴「原始仏典に説かれた自殺について」『東洋哲学研究所紀要6』1990年 p.99)

上の引用で陣内由晴氏も言及しているが、南伝仏教は「涅槃(ニルヴァーナ)」を「有余涅槃」と「無余涅槃」に立て分ける。

中村元 著『広説 仏教語大辞典』の解説では:

【引用】 「 【無餘涅槃】むよねはん
① 無制約のニルヴァーナの世界。 完全な真実のニルヴァーナ。
肉体などの生存の制約から完全に離脱した状態。 完全な絶無の境地。 悩みのない永遠の平安。
一切の煩悩を断ち切って未来の生死の原因をなくした者が、なお身体だけを残しているのを有余涅槃といい、その身体までもなくした時、無余涅槃という。
具体的にいえば、心の惑を斷じ尽くすぽかりでなく、肉体もまた無に帰したさとりの状態。
迷いが全くない状態で死し、氷遠の真理にかえって一体となったことをさす。」(中村元 著 『広説 仏教語大辞典』下巻p.1349)

水野弘元氏は、この「有余涅槃」と「無余涅槃」の立てわけは「ジャイナ教などの外教の影響で生じたもの」としている:

【引用】 「部派仏教になると、涅槃の考察がなされ、涅槃には有余涅槃と無余涅槃の二種があるとされた。 (中略)
有余・無余の思想はジャイナ教などの外教の影響で生じたものであって、存在論的な考えが導入され、本来の仏教にはないものである。」 (水野弘元『仏教要語の基礎知識(新版)』 2008年・p.170)

いずれにせよ、上座部仏教の修行者が最終的に目指すべき「完全な真実のニルヴァーナ」は、身体までも無くした「無余涅槃」とされる:

【引用】 「小乗教徒は煩悩を断じ、輪廻の苦界を脱することによって、無苦安穏なる境地を得ようとした。 そのために、肉体の死後に『無余涅槃』を得ようと修行したわけです。」 (池田大作『私の仏教観』「大乗仏教の興起」池田大作全集・第12巻p.315)

この、人間の煩悩を実体的にとらえて 肉体を“煩悩の温床”と見る上座部仏教の「無余涅槃・有余涅槃」という考え方は、肉体を抹殺すること、即ち自殺に結びつく可能性を孕んでいる:

【引用】 「 『天台四教儀』に“灰身滅智すれば無余涅槃となづけ”とあるように、肉体と精神の働きを滅し尽くさなければ完全な涅槃に入りえないとするならば、完全な涅槃を目指してなされる自殺は、否定されるべきものではなくなるだろう。
こうした考え方を背景に、自殺を容認もしくは肯定するような、仏教の中には本来なかった思想が、仏典の中に混入してきたのではないかと考える。
 もう一つ、部派仏教の時代に出てきた考えに『捨多寿行』の拡大解釈がある。 (中略) 仏は自身の寿命を自在に伸縮できる とする思想から生まれた観念である。
ところが、部派仏教の時代になると、この観念は阿羅漢にも適用されるようになり、阿羅漢も『寿行』を捨てることが出来るとされるようになった。 (中略) 即ち病気などによる苦痛を理由として『寿行』を捨てることが認められているのである。
このような思想も、自殺を容認・肯定するような雰囲気をもたらす背景となったと考えられる。」
(陣内由晴「原始仏典に説かれた自殺について」『東洋哲学研究所紀要6』1990年p.88~89)

このように他の宗教の影響や仏弟子による釈尊の教えの曲解によって、上座部仏教の教義に釈尊の真意から かけ離れたものが生じていったと考えられる。 「有余涅槃」と「無余涅槃」などは その典型だろう。
こうして見ると、オリジナルの釈尊に地理的・言語文化的に近いことは、必ずしもオリジナルの釈尊の教えにより近いことを意味しないことが分かる。

 ちなみに、創価学会では人間の身体は「聖道正器」とされており、戸田先生は、自殺について戒められている:

【引用】 「まず、人身を受けるということさえまれであります。
人間についての、仏法上の一つの定義は『聖道正器』ということであります。
人間であればこそ、聖道(みずからの成長を目指す四聖、究極するところ仏界、すなわち成仏への宗教)を歩んでいくことができるのであります。」 (「諸法実相抄」講義 池田大作全集・第24巻 p. 79~80)

【引用】 「さらに、戸田は、自殺にも言及し、
『この肉体というものは、法の器と申しまして、仏からの借り物になっております』と述べ、その大切な仏の入れ物を、勝手に壊してはならないと、力説している。
 仏縁を結んだ人は、いつか、必ず御本尊と巡り合える。 また、周囲の人びとの題目は、故人をも救い得る力となる。 それが仏法の力であるが、自ら命を絶ち、福運を消してしまう人を、絶対に出したくなかったのである。」 (『新・人間革命』第26巻「厚田」)

日蓮仏法では、不幸にして自殺した人も 遺族などの唱題によって救うことができるとするが、自殺自体を容認することはない。

 いずれにせよ、生命の尊厳の理念からいっても、自殺を誘発しかねない思想を認めるわけにはいかないだろう。
そのような、生命の尊厳の理念に反する、釈尊の真意から かけ離れた説を立てる上座部仏教の専業宗教者から「異端」と見なされることを、宮田幸一氏や その影響下にある現・創価学会本部中枢は恐れているようである。

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