男子部教学室文書への反論【3】
投稿者:一粒種
【教学室論考】
的外れな“批判本”を破す
2024年10 月18 日 〈男子部教学室論考〉「教学要綱」は創価ルネサンスの集大成
●「御書根本」に学会教学は伸展
“批判本”は誤読を土台、閉鎖的宗門教学に固執
このほど、須田晴夫氏が『創価学会教学要綱』(以下『教学要綱』)を論じる本を自費出版した。その主な内容は、“『教学要綱』は日蓮を「釈迦仏の使い」と位置づけ、その下位に置いている”という批判である。
『教学要綱』では、あくまで御書に基づき、「大聖人は、自身を『如来の使い』『教主釈尊の御使い』と位置づけ」(『教学要綱』45 ページ)て、「自身こそ上行菩薩の働きを行う者であるという自覚」(同)をもって、末法の万人成仏の法を確立されたことを示している。つまり、大聖人御自身が自らを「釈迦仏の使い」と位置づけられていることに論及したものであり、それをもって上記のように批判するのは、明らかな誤読であるといえる。氏の批判は、この誤読を土台に展開されているため、全く説得力のないものである。
【反論】
論考は「的外れな“批判本”を破す」と題名だけは威勢が良いが、その実、須田氏の論及に対し「教学要綱」の主張をオウム返しのように反復することに終始しており、明確な根拠、文証に基づき法義上から具体的に反証したものは一つもない。須田氏が「教学要綱」に対し再三「説明責任の放棄」(考察 p67)「不誠実」(考察 p67)「だまし」(考察 p164)等々と厳しく戒めているが、いわんや男子部教学室をやである。
「教学要綱」では大聖人に対する位置づけを、何ら具体的説明も無しに「久遠元初の自受用身」から「釈迦仏の使い」と改変した(後述のとおり、"久遠元初の自受用身"は宗門教学であり宗内にしか通用しない言葉だから用いないのだそうだ)。しかし、同時に「大聖人は末法の御本仏である」とも言い、明らかに論理矛盾をきたしている。結局「大聖人は末法の御本仏」との結論になるのであれば「釈迦仏の使い」なる表現はそもそも無用である。それをわざわざ用いてことさら強調していくような論述に、須田氏が「考察」で指摘する「世界においては釈迦を上位に置いた方が創価学会が受容されやすくなるとの判断」(p154)や、「十三世紀の日本に現れた無名の一僧侶である日蓮が実は釈迦すらも超越する根源仏であるという教義は、バチカンを初めとする世界の宗教界や学術界においては前代未聞の、容易に理解しがたい驚くべき教義であるから、そのような奇想天外とも受け取られかねない教義を前面に打ち出すことは世界的には得策ではないと判断した」(同頁)、「『教学要綱』が真筆ないしは古写本のない御書は判断の材料として採用しないという文献学至上主義を取り、また一大秘法や法宝を本尊から題目に改変するという、身延派に同ずる態度を見せていることも身延派などの僧侶を中心とするアカデミズムの意向を忖度していることをうかがわせる。」(p156)といった底意が透けて見える。
以上のことから、自らの無知を棚に上げて須田氏が「教学要綱」を誤読したなどと貶めるのは、まさに「狗犬が師子を吠え、猿猴が帝釈をあなずる」(下山御消息 全集p347 新版 p277)恥ずべき態度である。
【須田氏「考察」における当該箇所】
『日蓮=上行菩薩ということは諸門流も日興門流も同じだが、諸門流が日蓮を文上の法華経が示す通り「釈迦の使い」「釈迦から委託された存在」と位置づけるのに対し、後に述べるように、日興門流は日蓮を上行菩薩とするにとどまらず、日蓮を上行とするのは化導のための方便(外用)であって、日蓮の内証は釈迦を超越した根源仏(久遠元初自受用身)であるとする。そこに日興門流と身延派など他門流との根本的な相違がある。
ところで『教学要綱』は諸門流と同様に、あくまでも日蓮を「釈迦の使い」とする立場に立つので、経典の上では上行は釈迦の弟子であるから、当然のことながら釈迦を上位、日蓮を下位の存在と位置づけることになる。それは日蓮よりも釈迦を根本視する態度であり、身延派等と同様の釈迦本仏の立場に近づく。もちろん『教学要綱』は釈迦本仏とは明言しないが、日蓮=上行菩薩の立場にとどまる限り、実質的には「隠れ釈迦本仏論」と見なされよう。』(p12)
【文証】
『外用浅近の立場からすれば、日蓮大聖人は上行菩薩の再誕である。大聖人は、法華経神力品において、本化地涌の菩薩の上首として、末法における妙法弘通の別付嘱をうけられました。そして、末法に生をうけられた大聖人は、法華経の予言どおり、妙法を弘通されたのであります。しかし内証神秘の立場から論ずれば、大聖人はまぎれもなく久遠元初の自受用報身如来であられます。大聖人の悟りの生命は、久遠実成の釈迦を遥かに越えた久遠元初の本地の境地そのものなのであります。もし大聖人が単なる釈迦仏の使いであるとすれば、釈迦仏法の力が消滅する末法の世に出現されても、何の意味もないことになってしまうでしょう。』(池田会長 百六箇抄講義)
【教学室論考】
●「末法の教主」とは
氏は、日蓮大聖人は釈尊を超越した根源仏であると主張するが、これは宗門教学そのものであり、大聖人の御書や日興上人の著作に基づいたものではない。氏は、宗門に伝わる、いわゆる戒壇本尊の特別な意義を否定しつつも、あくまで宗門の閉鎖的・神話的な教義を立脚点として、その立場から批判しているに過ぎない。
【反論】
学会ではこれまで、大聖人=根源の仏として正しく認識してきた。しかし、「教学要綱」ではそれを百八十度転換し、「大聖人は根本仏ではない」とする立場となった。しかも、宗旨の根幹にかかわる重要教義の変更であるにもかかわらず、具体的説明を一切行わないという無慈悲、無責任極まりない欺瞞に満ちた態度である。
【文証】
『「久遠実成の釈尊」も「上行菩薩」も宇宙の根本仏であられる南無妙法蓮華経如来の「迹(影)」です。南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙生命そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。その十界のうちの「仏界」を、法華経では「久遠実成の釈尊」と「多宝如来」として説き、南無妙法蓮華経如来の「九界」を「上行菩薩」等として説いたのです。同じ根本仏の己心の仏であり菩薩です。』(法華経の智慧 第五巻 p195)
『日蓮大聖人は宇宙一の偉人である。根本の仏である。』(2003 年 12 月 海外・第二総東京代表協議会)
【教学室論考】
日蓮大聖人は、釈尊を根本の仏として最大に敬い、その教えを正しく拝したうえで、釈尊から滅後悪世の弘通を託された上行菩薩の使命を自ら果たし、御自身が覚知した『法華経』の肝心である南無妙法蓮華経を末法の人々を救う法として確立された。そこには、明確に「釈尊―『法華経』―日蓮大聖人」という仏法の正統な系譜を見いだすことができる。
【反論】
"日蓮大聖人は、釈尊を根本の仏とする""根本の仏たる釈尊から末法の弘通を託された大聖人が上行菩薩の使命を果たした"というのであるから「釈迦本、上行迹」のまさしく「釈迦本仏論」ではないか。誰がみても学会が「釈迦本仏」を主張していることは火を見るより明らかなのに、それが分からないのはもはや学会教学陣の悩乱が極まり、正邪の分別がつかなくなっているからである。「久遠実成本師釈迦牟尼仏から、その本懐である法華経を、末法に弘通することを付属された、本化上行菩薩の応現日蓮聖人が開創唱導した真実の仏法を開顕する仏教正統の宗団である」とは、日蓮宗宗憲の第一条であるが、見比べてみても全く同じ論ではないか。もはや学会の身延化は否定しようのない事実である。
【須田氏「考察」における当該箇所】
「『教学要綱』では日蓮を「釈迦の使い」であるとともに「末法の本仏」とするが、厳密に言えば、「釈迦の使い」と「末法の本仏」が同時に両立することは論理的にあり得ない。本迹は本(本体)と迹(影)という対概念であるから、片方だけで存在するものではなく、本仏があるならば必ず迹仏がある。日蓮が末法の本仏であるならば、何が末法の迹仏となるのか。本因妙の仏である日蓮に対応するものは本果妙の釈迦仏以外にない。従って日蓮を末法の本仏としたならば、末法においては釈迦仏を迹仏とせざるを得ない。ところが日蓮を「釈迦仏の使い」にすると、本仏(本体)が迹仏(影)の使いになるという論理矛盾が起きることになる。日蓮が末法の本仏であるならば釈迦仏の使いではない。日蓮が釈迦仏の使いならば末法の本仏ではない。」(考察 p21)
【文証】
『凡夫と仏という対比した関係からみれば、凡夫が体の三身をあらわし、本仏にあたる。それに対比して、仏すなわち釈迦仏は本体の働きとしてあらわれた三身であり、迹仏なのである。ゆえに、釈迦仏は、我等衆生からみれば、主君であり、師匠であり、親であるところの三徳を本来的に備えた仏と考えられていたけれども、事実はその仏に三徳の力用を与えていたのは、体の本仏である凡夫にほかならない。
凡夫があくまでも「本仏」である。これに対して、釈迦仏をはじめ、経文に説かれるあらゆる仏は、妙法蓮華経の働きとしての「迹仏」にすぎない、ということであります。法華経の道理から言えば当然のことでありますが、それをこのように明確に言い切り、凡夫こそ本仏なりと断ぜられたところに、日蓮大聖人の教えが、末法万年の未来に投じた、不滅の力用と光明があるのであります。ここに、凡夫と仰せられたのは、別して日蓮大聖人の御事であり、日蓮大聖人が御本仏であられることを示されております。』(諸法実相抄講義 池田大作全集 第二十四巻 p45)
『釈尊が悟った「永遠の法」即「永遠の仏」は、あらゆる仏が悟った「永遠の大生命」であった。過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じく「久遠元初の仏」を師として悟ったのです。それが久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経如来です。』(法華経の智慧 第四巻 p57)
【教学室論考】
釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではない。日蓮大聖人は、末法の人々を成仏に導くために、釈尊に代わる末法の教主として、成仏の根本法である南無妙法蓮華経を三大秘法として説き示し、末法万年にわたる人類救済の法を確立された。そのことをもって、創価学会は日蓮大聖人を「末法の御本仏」と仰ぐのである。
【反論】
「大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になった」との認識こそが邪義の根源なのである。そもそも、根本の法と根本仏(久遠元初の自受用身)とは一体不離であって、法即人、人即法の人法一箇が大聖人の仏法の極説である。あたかも大聖人御出現以前から南無妙法蓮華経なる"法"存在していたかのように認識しているようだが、それこそ単なる「理体」であって、我々衆生には見ることも触ることもできず、まして功力の作用など起るはずもない。南無妙法蓮華経は正しく「仏身」である。「日蓮がたましい」という「事」の上に顕現されることで初めてその力用が厳然と顕れ、衆生を利益するのである。大聖人を外して南無妙法蓮華経もへったくれもないのだ。
また、男子部教学室のように「釈尊も大聖人も(中略)上下・勝劣関係にあるものではない。」などという誤りを犯す輩がいるから、大聖人は「種・熟・脱を説かざれば、還って灰断に同じ」(曽谷入道殿許御書 新版 p1392)等と何度も仏の化導における三益の重要性を説き戒められている。開目抄には、「華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は、経は権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば、趙高が位にのぼり、道鏡が王位に居せんとせしがごとし」(新版 p91)と明示されており、また、「教主釈尊より大事なる行者」(下山御消息 新版 p299)「月は光あきらかならず。在世はただ八年なり。日は光明、月に勝れり。五の五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。」(諌暁八幡抄 新版 p747)等と、明確に種脱に勝劣があることを断言されているではないか。種脱に優劣、勝劣などないとの主張こそ日蓮宗の教義そのものである。
【須田氏「考察」における当該箇所】
『結局のところ釈迦仏は末法の衆生を救うことができない仏であり、末法においては釈迦に代わって能生の法体である南無妙法蓮華経を弘通する教主が出現しなければならない。実際に南無妙法蓮華経を弘めた存在は日蓮以外にはないのであるから、日蓮その人を南無妙法蓮華経と一体の根源仏と位置づけることが必然の帰結となる。久遠実成の釈迦仏も衆生の機根に応じて出現した迹仏(応仏)であり、諸仏能生の師である南無妙法蓮華経如来に対しては劣位にあるという勝劣を説くのが日蓮の元意であり、日興門流の根本教義である。』(考察 p18)
【文証】
『釈迦如来、五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐しませし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまいき。』(総勘文抄 全集p568 新版 p720)
『至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果俱時不思議の一法これ有り。これを名づけて妙法蓮華となす。』(当体義抄 全集p513 新版 p618)
『「如来」とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地の無作の三身なり。今、日蓮等の類いの意は、総じては「如来」とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を、「南無妙法蓮華経」と云うなり。』(御義口伝 全集p752 新版 p1048)
『日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え。仏の御意は法華経なり、日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。』(経王殿御返事 全集p1124 新版 p1633)
『一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。』(草木成仏口決 全集p1339 新版 p1779)
『法と人(仏)は本来、不可分なのです。「如来」というのも「如(真如・真実の世界)からやって来たもの」ということです。すなわち「如来」とは、真実の「法」が現実の上に表れたのです。宇宙生命に″人″の側面と″法″の側面があり、それが一体なのです。』(法華経の智慧 第四巻 p56)
【教学室論考】
『教学要綱』にあるように、創価学会は、宗門事件を経て「魂の独立」を果たしてから、「御書根本」「日蓮大聖人直結」の信心に立ち、大聖人の仏法の本義に基づいて、教学の在り方を一つ一つ見直し発展させてきた。池田先生はその先頭に立たれ、30 年に及ぶ膨大な教学に関する連載やスピーチ等を通して、学会教学の在り方を示し続けられた。それによって、日蓮大聖人の仏法が現代に正しく展開され、世界宗教へと飛翔していくことになったのである。『教学要綱』は、いわば、この 30 年の「創価ルネサンス」の集大成ともいえるものである。それに対して、須田氏が“私が学んできた教義と違う”と言い立てているのは、この 30 年の学会教学の伸展を、そして、それを開いてこられた師匠の戦いを少しも学んでいないということを自ら露呈しているに過ぎない。
【反論】
これまで述べてきて明らかなように、このわずか十数年という間に日蓮日興の法脈を正しく受け継いだ唯一の正当教団であった創価学会の教義の根幹は無残に破壊され、身延派と同化してしまった。まさに「破壊は一瞬」である。須田氏は、長年池田先生と共に「法華経の智慧」における対談をはじめ教学の興隆に戦い抜いてきた立場から、学会が宗教的「正しさ」を堅持して発展していってほしいとのやむにやまれぬ思いで声を上げたのである。「考察」の中で、「池田の逝去直後に発刊された『教学要綱』は池田の監修を得たとしているが、むしろ『教学要綱』の内容は生前の池田の思想とは大きくかけ離れており、同書が池田の監修を謳っていることはいわば池田を利用した態度であると評せられよう。」(p135)と、厳しく糾弾しているとおりである。
【教学室論考】
●普遍的に説明
また、氏は、『教学要綱』には「人法一箇」「久遠元初自受用身」といった用語が用いられていないと指摘するが、これらについて、学会教学では、宗門教学で用いるような大聖人を神格化・神秘化する用語としてではなく、実践に即したより深い意義を掘り下げてきた。そのうえで、これらの用語を用いなければ大聖人の仏法を説明できないものではないことから、『教学要綱』では用いられていないのである。
【反論】
学会では従来より近年に至るまで「人法一箇」「久遠元初の自受用身」などの用語を用いて「末法の御本仏日蓮大聖人」を説明してきた。「これらの用語を用いなければ大聖人の仏法を説明できないものではない」のではなく、「これらの用語の意味が分からないから用いて説明できない」の間違いであろう。これらの用語を使わず日蓮本仏論を完璧に説明しきれるのならやってみるがよい。現に、真摯な法門研鑽を怠り、浅はかな考えで論を組み立てた結果、「隠れ釈迦本仏論」などの邪義が生まれているではないか。
【文証】
『法と人(仏)は本来、不可分なのです。(中略) 釈尊が悟った「永遠の法」即「永遠の仏」は、あらゆる仏が悟った「永遠の大生命」であった。過去・現在・未来のあらゆる仏は、ことごとく釈尊と同じく「久遠元初の仏」を師として悟ったのです。それが久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経如来です。(中略)無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を「師」として、「人間・釈尊」は人間のまま仏となったのです。そして、悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の「永遠の仏」を師として仏になったのだとわかったのです。』(法華経の智慧 第四巻 p56)
『南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。「法」といっても「人(仏)」を離れた法は、「理」だけの存在です。実際には──「事」の上では──仏の智慧を離れた法というのはないのです。久遠元初の仏──無始無終の常住の仏は、宇宙生命そのものであり、一瞬の停滞もなく、常に不断に、一切衆生を救おうと活動しておられる。その仏と自分自身が、じつは一体であり、自分自身が久遠の昔から人々を救うため、広宣流布のために働いてきたのだ、今だけのことではないのだ──そう自覚するのが寿量品の心です。』(法華経の智慧 第四巻 p80)
【教学室論考】
氏は、大聖人を根源仏とする論拠として、「百六箇抄」「本因妙抄」などの相伝書を引用するが、これらの相伝書が宗門の法主信仰の温床となってきたことは事実である。また、宗内でしか通用しない相伝書に依拠するのでは、普遍的な説明にはならない。『教学要綱』では、論拠とする御書は、日蓮仏法の骨格というべき十大部を中心としている。
【反論】
学会では従来より「御書根本」の精神を旨とし、御義口伝や相伝書、日寛教学を縦横無尽に用いて教学の錬磨に励んできた。池田先生も、宗門からの破門以降もスピーチや「法華経の智慧」等の教学対談でこれら相伝書を引用し指導されてきたが、現学会はそれらを"普遍的でない"として一切否定することとなった。まさに五老僧にも勝る大増上慢、師敵対の恐るべき所業である。今後は会内において過去の教学書や先生の御指導の梵書、改ざんに拍車がかかっていくことであろう。
本因妙抄や百六箇抄などは、それこそ法主絶対論の温床になりうる記述(いわゆる後加文)などを除けば、本迹、種脱の相対や事理の勝劣を説き、日蓮本仏に導くための種々の大事な法門が述べられた重要な書状である。日蓮本仏論は、これらの法門や縁起、因果などの仏教哲理とその実践の帰結の上に成り立つ論である。宗門から独立した今、むしろこれら相伝書なども大いに活用しながら日蓮仏法の本義を徹底的に研鑽し、正当教学を構築すればよいのだ。宗門色を排除した「独自性」を強調しようとしたばかりに、宗門教学どころか根本の日興教学までも捻じ曲げる結果となり、大聖人の仏法とは大きくかけ離れたそれこそ「独自」の珍説が出来上がったわけである。「宗門教学」に影響され正義を見失ったのは学会の方である。
【教学室論考】
また、氏は『教学要綱』の内容は身延派に近接していると繰り返し指摘しているが、『教学要綱』は、創価学会の教学の柱である「日蓮大聖人を『末法の御本仏』と仰ぐこと」「本尊は日蓮大聖人が御図顕された曼荼羅本尊を立てること」を明確に説明している。それは、大聖人観といい本尊観といい、身延派とは明確に異なるものである。
【反論】
言葉は同じでも内実は「釈迦本仏論」に堕しているのだから有名無実である。須田氏の主張に明確に反論できていない以上、このような言は無意味である。
【教学室論考】
『教学要綱』は、現在の創価学会の教学が、日蓮正宗宗門の神話的・独善的な教学から明確に距離を置いたものであること、および他の日蓮宗各派とも異なる独自性を持つものであることを示すとともに、創価学会が日蓮仏法の正統な継承者として、どこまでも御書に基づき、大聖人の教えを現代に正しく展開し実践していることを明らかにしたものである。
【反論】
上記同様に現学会の正当性が立証できない以上これらの言は無意味である。
【教学室論考】
また、氏は『教学要綱』は法宝と僧宝の内容を変更しているとしているが、そのような指摘は当たらない。これまでの学会教学では、法宝について、「南無妙法蓮華経」と「南無妙法蓮華経の本尊」の二つの側面から説明してきた。そのうえで、『教学要綱』では、「法宝とは、仏が覚知した根本の法と、仏がそれに基づいて説いた教え」という仏教本来の定義のうえから、「大聖人が覚知し説き示された一大秘法の『南無妙法蓮華経』」としたものである。大聖人が覚知された根本の法(法宝)は一大秘法の南無妙法蓮華経であり、それを「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」の三大秘法として具現化されたのである。
【反論】
そもそも、2015 年 1 月 30 日付聖教新聞 4 面に掲載された「会則の教義条項改正に関する解説 下」において、「一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。」と明言したにも関わらず、「教学要綱」では何の説明も無しに用いられている。自己矛盾、自語相違もはなはだしく、あまりの無節操さにあきれるばかりである。
【教学室論考】
また、「僧宝」について、『教学要綱』は、あくまで「僧宝とは仏宝と法宝を伝える教団(サンガ)のこと」、つまり僧宝とは特定の個人ではなく教団であるという仏教本来の定義のうえから、現代において、創価学会における僧宝は、日興上人を範として日蓮大聖人の教えを実践している教団=創価学会であるとしている。それは、「今日では世界広宣流布を推進している創価学会が僧宝に当たる」という従来の解釈を踏まえたものである。
【反論】
従来、学会は三宝の本義はあくまでも一体三宝=尊信の対象たる御本尊であるとし、別体に開いた場合は仏宝=人即法の大聖人、法宝=法即人の御本尊、僧宝=大聖人と師弟不二の日興上人としてきたが、「教学要綱」ではここでも具体的説明を一切せず、法宝を御本尊から題目に、僧宝を日興上人から創価学会に改変した。前述したとおり、現学会の教学における根本的な誤りは、南無妙法蓮華経を単なる法の側面からしかとらえていない点である。法宝の改変においてもその誤った考えが反映されている。繰り返すが、南無妙法蓮華経は法即人、人即法の正しく仏身であり、人法一体なのである。
僧宝において日興上人を理由もなく除外したが、師匠がいくら正しい法を説いても、弟子がそれを正しく受け止めなければ未来に法はつながらず、唯一、大聖人の教えを正しく受け継いだのが日興上人である。その意味において、私たちが大聖人の仏法を行ずる上で日興上人は絶対に外してはならない存在であり、大聖人の仏法を正しく受け継いだ日興上人の教えが根幹をなしているのである。ゆえに仏宝、法宝を正しく受け継ぎ、示されたからこそ、不二の弟子である日興上人を僧宝と立てるのだ。日興上人無くしては創価学会の存在もないのである。須田氏も指摘するように、三宝義の改変は「自身の根本教義を否定することであり、その宗派の宗教的自殺に等しい行為」(考察 p141)である。
【文証】
『私たちが尊崇の対象とする「仏法僧の三宝」のうち、「仏宝」とは日蓮大聖人、「法宝」とは「南無妙法蓮華経の御本尊」、「僧宝」とは日興上人である。歴代法主は含まない。また「僧」とは、広く言えば、三宝を正しく伝え広めていく「和合僧」をさす。現代で言えば、創価学会こそが「和合僧」なのである。』(2005 年 2 月 全国最高協議会)
『私どもは、厳然と末法における真実の三宝を知っている。すなわち、仏宝は末法の御本仏日蓮大聖人、法宝は三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊、僧宝は日興上人にほかなりません。また、僧とは、″集い″を意味するサンガ(僧伽)のことですから、広げて言えば、大聖人の仏法を正しく持ち弘めて、民衆救済、平和実現に励む和合僧団を指す。現代で言えば、創価学会が、その和合僧団であることは、言うまでもありません。』(方便品・寿量品講義 第三巻 p180)
『「御本尊において三宝相即」、すなわち御本尊こそ、仏・法・僧の三宝を具えている、と示されている。したがって、私どもが、わが家の仏壇に御本尊を御安置して、信行に励むことが、そのまま、正しく三宝を敬っている姿となる』(1991 年 9 月 鳥取・島根代表記念勤行会)
【教学室論考】
氏は、『教学要綱』が「一大秘法」を本尊から題目に変えていると指摘しているが、氏が言う「一大秘法」を「本門の本尊」とする解釈は、御書にはない。そのことはすでに、2014 年の教義条項の改正に際して確認している。ここにも、氏が学会教学の伸展に追いついていない実態が表れている。『教学要綱』(193 ページ)にあるように、「曽谷入道殿許御書」では一大秘法は「南無妙法蓮華経」であることが明確に示されている。氏は一大秘法の解釈を日寛上人の「六巻抄」によっているが、御書ではなく「六巻抄」を根本とする氏の態度が浮き彫りになっているといえる。そもそも、「一大秘法を本尊から題目に変えている」ということ自体、氏の無認識を示している。大聖人は、御自身が覚知された根本の法である「一大秘法の南無妙法蓮華経」を、「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」という三大秘法として具現化されたのであり、「一大秘法の南無妙法蓮華経」は三大秘法における本尊や題目とは位相が異なるものである。
【反論】
学会はこれまで一貫して一大秘法=本門の本尊として教えてきた。「曽谷入道殿許御書」の当該箇所においても、末法に入って上行菩薩を上首とする地涌の菩薩が出現し、釈尊がとどめ置いた「一大秘法」を末代凡夫に下種していくことが述べられ、それは単なる"法"ではなくあくまで「妙法蓮華経の五字、名・体・宗・用・教の五重玄」(新版 p1399)とであると説かれている。何度も繰り返すが、南無妙法蓮華経は単なる"法"ではなく「仏身」である。
男子部教学室は『「一大秘法の南無妙法蓮華経」を、「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」という三大秘法として具現化された』『「一大秘法の南無妙法蓮華経」は三大秘法における本尊や題目とは位相が異なるもの』との意味不明な珍説を展開しているが、これこそ"御書にない"まったくの己義、邪説である。
さらには、日寛教学についても現学会は否定的な見解を縷々述べているが「教学要綱」では、『日寛教学の中で、「御書根本」「大聖人直結」にかなった教義解釈や、世界広布を推進していく創価学会員の信行に資する内容については、引き続き重んじていくことは言うまでもない。』(要綱 p150)としているのだから、この際日寛上人のすべての文献において、どこを重んじどこを排除するのか、納得のいく理由を添えて一切合切明確にすべきである。
【文証】
『南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。「法」といっても「人(仏)」を離れた法は、「理」だけの存在です。実際には-「事」の上では-仏の智慧を離れた法というのはないのです。』(法華経の智慧 第四巻 p80)
『「如来」とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地の無作の三身なり。今、日蓮等の類いの意は、総じては「如来」とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり。されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を、「南無妙法蓮華経」と云うなり。』(御義口伝 全集p752 新版 p1048)
『日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え。仏の御意は法華経なり、日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。』(経王殿御返事 全集p1124 新版 p1633)
『一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。』(草木成仏口決 全集p1339 新版 p1779)
【教学室論考】
●伝聞を基に侮辱
須田氏は、創価学会会則の「会長は、教義および化儀を裁定する。この場合、師範会議および最高指導会議に諮問するものとする」という条項を取り上げて、『教学要綱』の発刊にあたって最高指導会議が開催されたという発表はなく、会則違反であり、手続きを含めて法的にも問題が生ずる可能性があると指摘している。しかし、これまで示したように、『教学要綱』は、30 年かけて発展してきた創価教学を体系だった形にまとめたものであり、氏が言うような「根本教義を改変」したものではない。
【反論】
日蓮本仏から隠れ釈迦本仏に、一大秘法の義を御本尊から題目に、三宝義において法宝を御本尊から題目に、僧宝を日興上人から創価学会に・・・等々。これらを「根本教義を改変」と言わずして何というのか。
【教学室論考】
そうした『教学要綱』の意義や編集方針、内容については、刊行委員会で、委員長の原田会長のもと、種々、真剣に検討された。そして、師範会議において、出席者が全員、内容を確認したうえで、了承されたのである。それを、氏が師範会議を「形だけのもの」と批判すること自体、学会の名誉を毀損するものであるといえよう。また、『教学要綱』は教義を変更するものではなく、会則における「教義および化儀を裁定する」ものには当たらないため、師範会議の可決をもって了とされたのである。
【反論】
今回改めて、「教学要綱」の邪義は会長をはじめ師範会議の面々など学会の最高首脳が認可したものであることを男子部教学室が公式に認めてくれたのである。
【教学室論考】
さらに、氏は、池田先生が監修されたことに疑義を呈し、それを否定するような内容を述べている。『教学要綱』の編集作業は2年ほどかけて行われたが、その間、原稿を何度も池田先生に報告し、その都度、御指導をいただいて作成されたものである。それに対して、氏が臆測による無責任な発言をすることは、弟子としての最低限の礼節すら欠くものであるといえる。
【反論】
長年池田先生と共に教学の興隆のために戦い抜いてきた張本人が、「先生の思想と完全に異なる」と言っているのだから、それ以上説得力のある答えはないだろう。口を開けば「永遠の師匠」などと言いながら池田先生に一切の責任を押し付け自らは決して泥をかぶろうとしない、誠に卑劣極まりない師敵対の姿である。
【教学室論考】
なお、氏は、自身のホームページで、「『創価学会教学要綱』に関する原田会長宛て書簡」を公開している。そのなかで氏は「『教学要綱』を作成した中心は創価大学名誉教授の宮田・菅野両氏であると聞いております」と記しているが、これは事実と異なるものであり、宮田・菅野両氏は刊行委員会には入っていない。『教学要綱』の編集作業は、あくまで教学部を中心として進められ、仏教史などの専門的知見に関しては学識者に諮問する形で行われたのである。それに対して、須田氏が、曖昧な伝聞情報を不特定多数が閲覧することができるホームページ上で公表することは、学会本部や刊行委員会および宮田・菅野両氏の名誉を毀損するものであるといえる。
【反論】
「教学要綱」の邪説はあくまでも学会教学部が推進し、原田会長が認定した学会公式見解であることを再度強調してくれている。もはや従来の創価学会とは完全に異なる異端、異流となったのだから、「創価学会」を名乗るのをやめて、「原田真理教」なり「日蓮宗原田講」なりと、堂々と一宗一派を立ち上げるべきである。
【教学室論考】
以上のように、須田氏の本の内容は氏自身の誤読や無理解、無認識から生じた論拠の乏しい主張に終始しており、その言動も、「いまだ得ざるを謂って得たりとなし」(新 102・全 224)という増上慢の極みであり、破和合僧の所行と断じざるを得ない。
【反論】
大聖人ご在世も、天台宗が真言に押されて密教化した。そのことに対する大聖人の怒りはいかばかりであったか。今日の学会の身延化についても、大聖人から厳しく断罪されることは疑いないことである。
「東に迷う者は対当の西に迷い、東西に迷うゆえに十方に迷うなるべし。」(法門申さるべき様の事 全集p1269 新版 p1658)