男子部教学室文書への反論【2】
投稿者:カナリア
須田氏が著された「創価学会教学要綱」の考察―仏教史の視点から に対し、男子部教学室なる名で、反論にならない反論が寄せられている。この文章に対する私の印象を昔風に言えば、「下郎、頭が高い!」となろうか。
彼らは、教学部の大先輩であり、しかも池田先生と「法華経の智慧」を編んでいらっしゃる須田氏に対し、誤読だの学会教学の伸展に追いついていないなどと、愚にもつかない的外れなことを言い募っている。そこに、大先輩に対する「敬意」は微塵も感じられない。あなた達こそ、増上慢の極みであり、破和合僧そのものであると私は思う。以下、順を追って、彼らの言説の不明を、何点かに絞り論じていきたい。
まず須田氏が、教学要綱の中身が「隠れ釈迦本仏論」であると指摘していることについて、
『「教学要綱」では、大聖人自身が自らを「釈迦仏の使い」と位置づけられていることに論及したものであり(中略)氏の批判は、この誤読を土台に展開されているため、全く説得力のないものである』
と述べている。あなた達は、総・別や、一往・再往といった仏法の基本的なものの捉え方さえ、わかっていないのか?
日蓮大聖人が自らを上行菩薩の再誕とされるのは、化導のための方便(外用の辺)であった。ご内証は釈迦を超越した根源仏(久遠元初自受用身)であるとするのは、日興門流の眼目であり、三代会長が護ってきた創価学会の根本教義そのものなのである。
また彼らは、
『教学要綱にあるように、創価学会は、宗門事件を経て「魂の独立」を果たしてから、「御書根本」「日蓮大聖人直結」の信心にたち・云々』
とも述べているが、しかしここには、肝心要の、「御本尊」が抜けているのである。また、
『池田先生はその先頭に立たれ、30年にも及ぶ膨大な教学に関する連載やスピーチを通して、学会教学の在り方を示し続けられた。(中略)教学要綱はいわば、この30年の「創価ルネッサンス」の集大成ともいえるものである』
とも述べている。笑止千万。教学要綱が集大成などとは、冗談も休み休みにして欲しい。
1995年2月~1999年6月までの4年半にも及んで、「法華経の智慧」は大白蓮華に掲載された。池田先生は「いよいよ、本格的に「二十一世紀の宗教」を語るべき時代に入りました」と言われ、池田先生の他、当時の教学部(故斎藤教学部長、須田副教学部長、遠藤副教学部長)の4名の対談形式で編まれた「未来のための重書」である。後に若干触れるが、これこそが21世紀、さらに今後の1,000年を照らす、先生の遺して下さった、学会教学の“集大成“となるべき”一書“なのである。(ワイド版全6巻)
1993年9月16日、アメリカロサンゼルスで行われた第一回アメリカSGI最高会議の席上、池田先生は以下、極めて重要なご指導をなされた。「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも変わらない」と。1991年11月に、創価学会が宗門(日蓮正宗)と離別した2年後のご指南であることが重要である。そしてまた先生は「弘安二年の御本尊」・「戒壇の御本尊」とは言っておられない。「一閻浮提総与の大御本尊」と仰せになっているのである。
2014年11月、学会執行部は、先生のご指南を蔑ろにし、大御本尊=弘安二年戒壇の御本尊であるとの、狭く偏った認識に基づき、「大石寺にある大御本尊は受持しない」との、教義改変を進めてしまった。思えば、これがカオスの始まりであった。
そして、「教学要綱」は、法宝を「御本尊」から「題目」に変えてしまった。曼荼羅本尊の相貌について書けない理由は、大聖人の残されたいずれの御本尊にも、中央には南無妙法蓮華経 日蓮との主題が配されていて、釈迦仏や多方如来は脇士に過ぎない。ゆくゆくは「日蓮本仏論」から、「釈迦本仏論」に変更したい執行部には、大層都合が悪いことなのだろう。
また、参考まで、「法華経の智慧」第4巻に、斎藤教学部長と池田先生との間で、以下のようなやり取りがある。
『斎藤教学部長:この永遠の法とは南無妙法蓮華経であり、「永遠の仏」とは南無妙法蓮華経如来すなわち久遠元初の自受用身のことですね。
池田先生:そうです。南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。「人法一箇」です。ここが大事なところです。「法」といっても「人(仏)」を離れた法は、「理」だけの存在です。実際には・・「事」の上では、・・仏の智慧を離れた法というのはないのです。』
東大出身の「能書き二乗教学者」には、この池田先生のご指南がわからない。「法本尊」はわかっても、「人本尊」は受け入れられないのであろう。
さらに、「法華経の智慧」の中では、池田先生が相伝書である「御義口伝」を多々引用されているのも関わらず、彼らは以下のように言う。
『これらの相伝書が宗門の法主信仰の温床になってきたことは事実である。また、宗内でしか通用しない相伝書に依拠するのでは、普遍的な説明にならない』
・・と。
戸田先生は「教学は日寛上人の時代に還れ!」と仰せになり、「六巻抄」をはじめとして、「御義口伝」や「百六箇抄」を重用されてきた。
創価学会執行部は宗門(日蓮正宗)を恐れ、警戒し、整合性なき「独自性」にこだわり過ぎて、自ら誤った方向へと進んでいる。
須田氏も述べられているように、宗門(日蓮正宗)は、「法主信仰」や「僧俗差別」の邪義によって、広宣流布を進める創価学会を破門し、日興門流から離れていったのである。
創価学会は、池田先生が基本とされてきた「日興門流」の教学を、正々堂々と護っていけば良かったのである。宗門(日蓮正宗)を忌避する事と日興門流の教学は別なのである。あなた達は、ここを混同してしまっている。
僧宝の変更についても、彼等男子部教学室は以下のように言っている。
『また、須田氏は、教学要綱は法宝と僧宝の内容を変更しているとしているが、そのような指摘は当たらない」「しかし、これまで示したように教学要綱は、30年かけて発展してきた創価教学を体系だった形にまとめたものであり、氏が言うような「根本教義を改変」したものではない。』
・・言葉を失う愚かさである。
仏法者にとって、帰依すべき、三宝の変更(仏・法・僧)が根本教義の改変に当らない??。下劣な政治家のような、理に合わない言い訳。「そのような指摘は当たらない」だと・・。
顔を洗って出直して欲しい。甚だしい「自語相違」。恥を知って欲しいと切に願う。
最後に、あなた達の以下の妄言に対しても、申し上げておきたい。
『氏は池田先生が監修されたことに疑義を呈し、それを否定するような内容を述べている。
教学要綱の編集作業は2年程かけて行われたが、その間、原稿を何度も池田先生に報告し、その都度、ご指導をいただいて作成されたものである。それに対して、氏が憶測による無責任な発言をすることは、弟子としての最低限の礼節すら欠くものであるといえる』
と。
「師弟」の何たるかを全く分かっていないあなた達が、どの口で言うのか?と逆に問いたい。病に倒れ、自由を失っておられた先生。先生のご生前のご指導を真剣に学んでいる者なら、先生のご指南に、ことごとく一致しない「教学要綱」の誤りに、気付かない訳がない。
原稿を何度も報告したというなら、何月何日、どこでご指導いただいたのか?誰が同伴していたのか?どの個所をご指導下さったのか?明らかにするがいい。立証責任はあなた方にある。いずれにしても「教学要綱」という、師敵対の「証拠」は厳然と残ってしまった。あなた方はもう逃れられない。終わりに、あなた達に御書の一節を贈りたい。
「我が弟子の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻極の相を現ず可し其の時我を恨む可からず等云々」(顕立正意抄 御書全集P537)