男子部教学室文書への反論【1】

投稿者:いっこく堂

男子部教学室論考を粉砕す
―現学会教学の根本的錯誤について―

須田晴夫氏による原田会長宛ての「意見書」及び「要綱の考察」に対し、この度、反論らしきものが「男子部教学室論考」として創価学会の公式HPに掲載された。「反論らしきもの」と表現したのは、その内容が、かの「要綱」を再説するのみで、須田氏の具体的な指摘に対する反論にも説明にもなっていないからである。ただ一つ確認できたことは、「要綱」が本部より委託を受けた一部の御用学者による「先走り」や、執行部の「勝手な強行」ではなく、本部の総意としての正式な創価学会教学であると念を押されたことである。つまり既に修復不能なレベルにまで至っているということだ。まさに「破壊は一瞬、建設は死闘」である。創価三代が不断の努力で築き上げたものが一瞬にして破壊されてしまったのである。言葉では「先進性」を謳い装っているが、その中身は「先進」どころか、嘗て謗法として徹底して批判した身延派教義に親近し、更にはその身延派にも劣る筋の通らない逆行教義を創作しているのだ。いったい「本迹勝劣」なのかそうでないのか、「種脱」の相違はあるのか無いのか、曖昧模糊として全く不明な法門が誕生したものだ。「独自性」を強調して煙に巻こうするが、必要なのはどの教団でも勝手に主張できる「独自性」などではなく、「正当性」「普遍性」である。

聞くところによれば、須田氏の地元墨田区に於いて、須田氏を反逆者呼ばわりする会合が開かれたようである。創価の未来を真剣に憂いて、誠意ある論調で提出された「意見書」に、当の原田氏は何も答えず、「男子部教学室」などという責任の所在を曖昧にした形で、取ってつけた「反論のようなもの」で鼻をくくっているのである。独善と不誠実の極みである。

会員が実情を知らないことをいいことに、「池田大作監修」などと先生を利用して嘯く執行部の言と、「法華経の智慧」の対談者の一人である須田氏の「生前の池田先生の思想とは大きくかけ離れている」との証言と、どちらが真実かは一目瞭然である。この邪悪な「要綱」によって、「法華経の智慧」をはじめとする池田先生の教学的指導のほとんどが齟齬をきたして使えなくなってしまったという現状にも、先生より幾多の恩恵を受けてきた会員諸氏は、変わらぬ盲従を続けるのであろうか。

さて、前置きが長くなったが、以下「男子部教学室論考」なるものを破折しておこう。
「教学室論考」によれば、冒頭、「要綱」が「釈迦仏の使い」を強調した理由について、

「大聖人が自らを『釈迦の使い』と位置づけられていることに論及したもの」(教学室論考)

に過ぎず、それ以上の意味は無いから須田氏の批判は「誤読」(教学室論考)であり批判に当たらないと言う。なるほど当該文書の青字で記された「上行菩薩」の語句をクリックすると、その用語解説に遷移して、そこには今も、

「創価学会では、大聖人は、外用[げゆう](外に現れた働き)の観点からは上行菩薩であられ、内証[ないしょう](内面の覚り)の観点からは久遠元初[くおんがんじょ]の自受用報身如来[じじゅゆうほうしんにょらい]であられると拝する」(聖教新聞HP 用語解説)https://www.seikyoonline.com/commentary/?word=%E4%B8%8A%E8%A1%8C%E8%8F%A9%E8%96%A9

と明記している。

これによれば、「要綱」の示す「上行菩薩」「日蓮」の認識はこれまで通り、「その本地は久遠元初の自受用報身如来である」との認識である。となると今更わざわざ外用の辺である「釈迦の使い」を強調する必要はなかろう。学会や宗門でなくとも、法華経を依経とする教団なら文上の「上行=釈迦の使い」は一同に認めるところである。しかし、内証を説くのは日興門流独歩のものであるから、「久遠元初の自受用報身如来」を謳う限り、「教学要綱」も「久遠実成」と「久遠元初」、「本果妙」と「本因妙」、「脱益」と「種益」等の勝劣判釈は何ら変わっていないかのように見える。

ところが、「末法の教主とは」(教学室論考)の段になると、

「氏は、日蓮大聖人は釈尊を超越した根源仏であると主張するが、これは宗門教学そのものであり、大聖人の御書や日興上人の著作に基づいたものではない」(教学室論考)

と一転する。先の「久遠元初」も「自受用報身如来」も宗門教学であるが、そちらは認めているのに、ここでは日蓮・釈迦の勝劣も「根源仏」も認めないと言う。全く不可解極まりない話である。「久遠元初の自受用報身如来」とは正に「根源仏」の異名であって、何かそれ以外の意味があるとでも言うのだろうか。釈尊の「久遠実成」に対し、より本源的な「本地」を説くからこそ「久遠元初の自受用報身如来」というのであって、そこに勝劣があるのは当然である。
そして、

「これは宗門教学そのものであり、大聖人の御書や日興上人の著作に基づいたものではない」(教学室論考)

と、以前よく身延や大崎方面から聞かされた懐かしいセリフを、今更強弁した上で、

「日蓮大聖人は、釈尊を根本の仏として最大に敬い、その教えを正しく拝したうえで、釈尊から滅後悪世の弘通を託された上行菩薩の使命を自ら果たし、御自身が覚知した『法華経』の肝心である南無妙法蓮華経を末法の人々を救う法として確立された。そこには、明確に「釈尊―『法華経』―日蓮大聖人」という仏法の正当な系譜を見出すことができる」(教学室論考)

と高説する。これは、今更言われなくてもかつての学会員であれば誰でも知る外用の教相であって、まさに身延派教学そのものとも言える浅薄な解釈である。「宗門教学」を嫌って「身延派教学そのもの」を力説するとは、進展どころか大きく後退したものだ。これでは須田氏が「身延化ではないか」と批判されるのも無理はない。繰り返しになるが、釈尊自身は「我本行菩薩道」として「久遠実成」以前に修行があったことを認めているのであるから「久遠元初」でもなければ、純粋な「自受用報身」でもない。つまりそこに明確な優劣があるのは当然である。それでも尚「そんなことは御書のどこにも書いていない」というのであれば、さっさと身延の軍門に下り、根拠のない「久遠元初の自受用報身如来」を捨てて、執行海秀や浅井要麟を師と仰げばよいのである。

ところで前後するが、このご高説の直前に看過できない一節がある

「氏は、宗門に伝わる、いわゆる戒壇本尊の特別な意義を否定しつつも」(教学部論考)

と、須田氏が戒壇本尊の特別な意義を見直されておられることを認め、これに便乗していかにも自分たちも既に戒壇本尊問題に決着をつけているかのような表現だが、自分は寡聞にして創価学会が戒壇本尊に付されてきた特別な意義を否定する教義的根拠や、実証的説明を聞いたことが無い。ただ「謗法の山にあるから受持の対象としない」との中途半端な説明だけである。

宗門の閉鎖的・神話的な教義を批判したいのであれば、何をおいてもこの問題に明確な回答をして公表すべきである。にもかかわらず。須田氏を一方的に

「閉鎖的・神話的な教義を立脚点として、その立場から批判している」(教学部論考)

などと決めつけて批判をかわそうとしているが、須田氏の立脚点や立場は、誰がみても池田先生ご健在時代の学会教学であり、池田教学である。それを「閉鎖的・神話的な教義を立脚点としている」というのであれば、まず先に、池田先生の教学指導のどこが閉鎖的で神話的なのかを指摘して批判すべきであろう。

そしてついには、

「釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではない」(教学室論考)

と結論付けている。つまり、「久遠実成の釈尊」と「久遠元初の日蓮」に勝劣はなく、従って「本果」や「本因」、「脱益」や「種益」等の勝劣もないことになる。一体法華経のどこに釈尊が南無妙法蓮華経によって仏になったと書いてあるのか。また、釈尊も日蓮と同じ「自受用報身如来」だという文証なり根拠を示してみよ。ご化導の次第や教義の次第を全く無視した暴論である。これでは何故釈尊が初めから南無妙法蓮華経を説かなかったのか、何故地湧の出現なくして発迹顕本できなかったのか全く説明がつかない。いったいご自身を「教主釈尊より大事な行者」(下山御消息)とか、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(報恩抄)等の聖語、更には「南無妙法蓮華経 日蓮」と中央に大書して「教主釈尊を脇士となす」(観心本尊抄)とした御本尊の意をどのように解釈するつもりであろうか。文上に固執して日蓮を「釈尊の使い」に位置付ける身延派でさえも、その文上の筋に即して釈迦を本仏と立て、日蓮を「大菩薩」として勝劣を分けているのに、それとも違う珍教義を誕生させたようだ

しかし、どうやら現創価の錯誤の根っこが見えてきた。それが、

「釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり」(教学室論考)

との一節だ。これによると釈尊や日蓮以前に「南無妙法蓮華経」なる根本の「法」が宇宙のどこかに単独で存在し、その「法」なるものによって釈尊も日蓮も仏になったと理解しているようだが、これは全くの逆さまである。このような「法先仏後」説では「無始無終の仏身」や「三世常住の仏」「久遠元初の仏」などは存在しないことになる。これは「南無妙法蓮華経」が元より仏身(如来・生命)であることを知らない為の邪見である。妙法の理は天地の間にあったとしてもそれはどこまでも理性であって、いわば観念論だ。実際には仏の「智慧」のうちにのみ厳然として具わっているのであり、教学的に丁寧に言えば、法報応三身具足の当体の報身中に具しているのである。これが本有常住の南無妙法蓮華経である。

これについては筆者の拙論より、池田先生のご指導を見てみよう。

【以下、「法華経の智慧」より主論部抜粋】

『池田 釈尊は五百塵点劫の太古に成仏したと説いた。これは、全宇宙のすべての仏は、その久遠実成の釈尊の弟子だということです。それでは、「その前」はどうだったのか。
斉藤 「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。
池田 すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。
須田 たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。
遠藤 始成正覚の釈尊は「本無今有〔本無くして今有り)」と破折されました。″根無し草″のようなものだと。
しかし、「途中から仏になった」という点では、寿量品の「久遠実成の釈尊」も、ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、同じです。厳しく言えば「本無今有」であって「本有」ではありません。
斉藤 「本有」でなければ、三世常住の「本仏」とは言えません。
池田 「宇宙と一体の無始無終の根本仏」を説くためには、二つの方法しかない。一つは、因果を無視することです。因とか果とか言わなければ、単に「無始無終の仏」と言っておけばすむ。因果を言うから、「仏果を得る前」が問題になるのだから。
しかし、因果を無視したのでは仏法ではなくなってしまう.因果を鋭くからこそ仏法なのであって、因果を無視すれば外道です。なかんずく「仏因」「仏果」が、仏法のメーンテーマです。
「仏因」が先にあって、「仏果」が後に来るというのでは、どうしても、″何らかの時点で″仏が出現することになる。要するに、無始無終の仏を説くためには、「仏因(囚行)」に「仏果(果徳)」を認めなくではならないのです。これが、三世常住の本仏を示すうえでの第二の道であり、「唯一の道」です。
斉藤 理論的には、どうしてもそうなります。
池田 この「因位(仏因の位)の仏」──それが上行菩薩です。「因果倶時の仏」です。上行菩薩が出現しなかったならば、無始無終の本仏は示せないのです。
上行菩薩の出現は、五百塵点劫という想像もつかない過去をも突破した「無始無終の久遠の本仏」を指し示しているのです。
須田 この「無始無終の本仏」とは、私たちが「久遠元初の自受用報身如来」と呼んでいる「南無妙法蓮華経如来」のことですね。
池田 もちろん、その通りです。
須田 そうしますと、この「久遠元初」というのは、もはや「はるかな昔」という意味ではありませんね。時間の枠を突破しているというか、もう「時間の概念」ではないということになります。
池田 そうです。「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。時間論ではなく、生命論です。生命の奥底の真実──無始無終に活動し続けている宇宙生命そのものを指して「久遠元初」と呼んでいるのです。それは「無作三身如来」と言っても同じです。』(法華経の智慧 第五巻より)

更に明言を拾えば、

『池田 南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。「法」といっても「人(仏)」を離れた法は、「理」だけの存在です。実際には──「事」の上では──仏の智慧を離れた法というのはないのです。久遠元初の仏──無始無終の常住の仏は、宇宙生命そのものであり、一瞬の停滞もなく、常に不断に、一切衆生を救おうと活動しておられる。』(法華経の智慧 第四巻より)

実に明快であります。繰り返すが、ここで重要なのは南無妙法蓮華経が単なる「法」ではなくて仏身(如来・生命)であるということだ。現学会教学部やエセ学者たちの最大の誤りは、「法」なるものが単独で存在し、「仏」の有無にかかわらず宇宙のどこかに存在していると思い込んでいることだ。だから「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ」(教義改定)とか、「釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではない」(教学室論考)などと得意げに強弁する。これはよく初学の人が陥る解釈で、まるで憶えたての中学生の理屈を聞いているようである。無始無終の仏の生命(無始の古仏)が自身に本有常住していることを覚知した人(即ち本仏)がその生命を南無妙法蓮華経と名付けたのである。名付けたばかりではない、それはその生命(如来)の宝号であると同時に「体」であり「宗」であり「用」であり「教」であり、即ち仏身そのものである。その体理は妙法五字であるが、宗・用・教、またその化益において本因と本果、種と脱に分かれるのである。また、そこに自ずと勝劣・優劣が分かれるのであって、発迹顕本の意義もひとえにここにあるのである。釈迦・日蓮それぞれの「顕本」の「本」の違いこそその勝劣を分かつ根本である。これが法門というものだ。

故にこそ、その「仏身」(南無妙法蓮華経如来)である御本尊をもって「一大秘法」とし、その御本尊に唱える題目を「本門の題目」とするのである。本尊なくして題目も戒壇もないからだ。日寛上人の言葉を借りれば、「宇宙根本の法を具現化した」とか、「根本法である南無妙法蓮華経を三大秘法として説き示し」(教学室論考)とかいうのはいわば理を事相に表現したに過ぎずやはりどこまでも「理」である。当宗は「事を事に顕す」のであると。「事」とは即ち「仏身」であります。

現学会はこの誤った「法先仏後」思想によって、「単法」としての題目を重視することになり、結果、一大秘法を人法体一の御本尊ではなく「題目」であるとしたり、人法一箇を不要とする題目至上主義に陥る。現学会が宗門教学を嫌うのは、須田氏が言うように単に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というだけではなく、そもそも教学理解における決定的な未熟さがあるからなのであろう。

例えば、日蓮宗系他門徒が御本尊の首題の直下に筆者自身の名を記したりするのは、現学会と同じ題目至上主義だからである。なるほど釈迦や日蓮が「根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下。勝劣はない」(教学室論考)のであれば、同じように題目を唱え信じ成仏した者は誰でも自身の名を記しても不都合はないことになる。「いや、それはまずい」というのであれば、宗祖以降誰一人としてその「根本の南無妙法蓮華経」によって成仏した者はいないということになる。実際単法(理性)としての「題目」を境として成仏したものは皆無であろう。「南無妙法蓮華経 日蓮」(人法一箇・御本尊)を境妙として智妙の題目を唱えるから境智冥合するのである。

だいたい、釈迦と日蓮に上下・勝劣がなければ釈迦を拝んでも何ら問題ないことになる。どんなに言葉で繕っても須田氏のご指摘の通りこれは「亜流身延教学」である。実際、その方向に進もうとしているのであれば、相伝書を否定して御義口伝は利用するなどというご都合主義で会員を惑わすは止めて、一日も早くはっきりとそう明言すべきであろう。

「末法の教主」などと小題を掲げておきながら、その中身は、大聖人を「釈尊の委託を受けて末法に根本の法(理)を説いた人」くらいにしか考えていないのである。

続いて「教学室論考」は、宗門問題を期に学会教学を見直したとし、

「池田先生はその先頭に立たれ、30年に及ぶ膨大な教学に関する連載やスピーチ当を通して、学会教学の在り方を示し続けられた。」(教学室論考)

のであり、今回のこの「教学要綱」はその集大成だというのである。確かにこの30年に限らず、会長就任以来2010年にお倒れになるまで。先生が各所、各機会に教学関連の連載やスピーチをして下さったのは確かであり、私もそれを真剣に学んできた一人である。しかし、その数々のご指導のどこに、「教学要綱」が示すような教義上の「釈迦の使い」論や「人法一箇不要」論、「日蓮・釈迦斉等」論、「日寛教学否定」論があったというのであろうか。明確な文証を以て示してもらいたい。しかも宗門問題も戦ったことのない、男子部教学室なる未熟な連中が言うに事欠いて、信心歴六十年を生き、東大法華経研究会以来、長年学会教学を牽引し、副教学部長として池田先生と教学対談「法華経の智慧」を編まれた須田氏に対し、「師匠の戦いを少しも学んでいない」(教学室論考)などとは増上慢も甚だしい。そこまで言うなら実名を名乗って堂々と対論すべきである。

振り返れば大誓堂建立を期に身勝手な教義の変更を企み、「それは池田先生の意向ではない」と抵抗する教学部を脅した上、遂には当時の遠藤教学部長や教学室員を解任、解雇処分にした事実は記憶に新しい。その際「教義なんて都合よく変えればいいんだ」「過去との整合性なんてどうでもいい」「自語相違と批判されてもかまわない」等と豪語した現執行部のT副会長の本心、及びその後に実施された「教義改定」「経本改定」「会則改定」「会憲制定」を見れば、「要綱」は池田教学の集大成どころか、T教学の集大成、原田学会の集大成というべきであろう。

次に「普遍的に説明」と題した項目では、「人法一箇」や「久遠元初自受用身」といった用語について、

「宗門で用いるような大聖人を神格化・神秘化する用語としてではなく、実践に即したより深い意義を掘り下げてきた」(教学室論考)

という。自分たちの都合で、宗祖を神格化・神秘化したのは近年の日顕一派であって、宗門教学の本来の真意はそんなところにはない。まして創価学会、就中池田先生の時代まではそれらの用語を神格化や神秘化として使用してなどいないし、実践に即した教学として学んできている。(最近の執行部や教学室はどうか知らないが)。自分たちの思い込みや都合で、過去の珠玉の指導の数々を無駄にしてしまうような愚行は止めてもらいたい。池田先生の数々のご指導以上に「実践に即したより深い意義を掘り下げた」(教学室論考)ものがあるというのであれば、是非その「より深い意義」なるものを拝聴したいものである。少なくとも「教義要綱」にはそれらしきものは見当たらない。

同じ理屈で、相伝書を使用しないというが、御義口伝や御講聞書、日興遺誡置文も相伝書である。これらには「御書」に記されていないことが山ほどある。これらを「普遍的でない」として捨てるのであれば、どうぞご勝手にと言うほかはない。
また、身延化であるとの指摘をかわすために、

「大聖人を本仏と仰ぐこと、大聖人図顕の曼陀羅本尊を立てることを明確にしている」(教学室論考)

というが、これまで指摘した通り、その根拠は全く的外れであり、まさしくこれも須田氏のご指摘の通り「言葉だけの偽装日蓮本仏論」と言うべきであろう。

そして、お得意の「独自性」を強調して自らを、そぐわない美辞をもって自画自賛するに及んでは恥ずかしくて読むのも苦痛である。そんなに「独自性」を発揮したいなら、会員に宗門歴代書写の御本尊を拝ませるのはやめて、早く独自の「御本尊」を表して下付したらよい。「大聖人のご本尊を書写した御本尊は全て本門の本尊である」(教義改定の説明)から誰が書いたものでもよいのだとの言い訳が聞こえてきそうだが、それなら猶更大石寺宗門の伝統化義に則って認められた人法一箇の御本尊より、お手盛りの「認定権」なるものを発揮して「南無妙法蓮華経」のみを記した独自発行本尊の方が余程その主義主張に適っていると思うが。

以上、長々と書いたが、これ以降の教学室論考の主張についてはいずれも上記の説明で充分事足りる内容なので省略する。

最後に、このまま進めばいずれ、彼らにとって神話的・神秘的な「法華経」も捨て、現代的でない二品読誦もやめ、大乗非仏説論に押し切られて、やがて御本尊不要論が出来し、題目だけ唱えれば良しとする訳の分からぬ教団に変貌するだろう。

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