須田晴夫氏が原田会長に「創価学会教学要綱」に関する建白書を送付!

先般、学会教学の変節を厳しく破折した「創価学会教学要綱の考察」を出版された、元全国副教学部長で「法華経の智慧」における池田先生との対談者でもある須田晴夫氏が、去る9月12日に原田会長に対し諫暁の書とも言うべき書簡を送付されたそうです。
須田氏のホームページに掲載されていましたので、以下、全文を掲載させて頂きます。
https://www4.hp-ez.com/hp/haruosuda/page7

拝啓
朝晩は秋の気配も感じられる昨今となりましたが、ご健勝でご活躍のことと存じます。

さて、このたび、『創価学会教学要綱』について私なりに考えたことをまとめた小著( 「 『創価学会教学要綱』の考察」 )をアマゾンのペーパーバックで出版しましたので、贈呈させていただきます。ご一読いただければ幸いです。

端的に申し上げて『教学要綱』の内容にはさまざまな問題があり、創価学会の教義を将来にわたって規定する「教義書」としては適切でないと思われます。

『教学要綱』を作成した中心は創価大学名誉教授の宮田・菅野両氏であると聞いておりますが、両氏は研究者としての立場から、日蓮学アカデミズムの主流である身延派日蓮宗から批判されることを恐れて、ひたすら身延派に忖度している態度が顕著です。そのために『教学要綱』全体が身延派の教義に同化していると判断されます。

例えば『教学要綱』では日蓮大聖人について、最後まで「上行菩薩としての役割を果たす立場である」(同書四三頁)として「日蓮=上行菩薩」との認識を貫いていますが、大聖人を釈迦仏から末法弘通の役割を託された「釈迦仏の使い」であるとする認識は身延派の教義そのものです。これまで創価学会は、大聖人が上行菩薩であるというのはあくまでも外用の姿であり、大聖人の内証は久遠元初自受用報身如来であるとしてきましたが(二〇一五年創価学会教学部編『教学入門』一七一頁)、『教学要綱』は「久遠元初自受用身」の用語を一切用いず、従来の立場からすれば専ら外用の位置づけにとどまっております。

もちろん『教学要綱』も大聖人について「末法の御本仏」としていますが、それはあくまでも「釈迦仏の使い」としての存在であって、従来のように久遠元初自受用身という根源仏としての意義づけにはなっておりません。

大聖人を上行菩薩の再誕と位置づけ、「釈迦仏の使い」とすることはあくまでも法華経文上での話であり、曼荼羅本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮(花押)」と大書し、釈迦仏と多宝如来を左右の脇士の位置に置かれた大聖人の内証の教示とはかけ離れております。

また『教学要綱』は「一大秘法」と「法宝」についても従来の曼荼羅本尊から南無妙法蓮華経の題目に改めておりますが、拙著で詳しく述べました通り、これもまた身延派の教義そのものです。このように『教学要綱』では身延派と同化している内容が余りにも目立ちます。

『教学要綱』が「本因妙抄」「百六箇抄」「御義口伝」の名前すら出していないことも、これらを偽書としている身延派から突っ込まれることを恐れる『教学要綱』執筆者の在り様を示していると思われます。

日寛上人の教示に対しても『教学要綱』は多くの点で違背しており、「本因妙抄」などの相伝書を一切無視していることと合わせて、『教学要綱』が日興門流から離脱する志向性を持っていることは誰の目から見ても明らかです。

日蓮正宗から離れて三十年以上経過した今日、『教学要綱』が日蓮正宗を否定して創価学会独自の教義を形成しようとする意図は理解できますが、日蓮正宗を拒絶するあまり日興門流の根本教義まで日蓮正宗と一緒くたに否定するのは誤りであると思われます。なぜならば、創価学会は創立以来、日蓮・日興という師弟不二の血脈に日蓮仏法の正統性があるということを大前提にして今日まで存在してきたからです。

形式的には今でも日興門流の教義が日蓮正宗の教義になっておりますが、日蓮正宗が邪教化したからといって日興門流の教義自体までが初めから間違いであるということにはなりません。日興門流そのものが邪義であったというのであれば、創価学会そのものが当初から間違いだったということになるからです。

拙著でも述べましたように、日蓮正宗は創価学会の破門処分を強行したことによって日蓮大聖人と日興上人に違背し、日興門流としての正統性を喪失したのであり、日蓮正宗と日興門流の教義は立て分けて考えなければならないと思います。日蓮正宗が邪教となったとしても、日興門流の教義の正しさは揺らぐものではありません。日興上人が後世に正しく伝えられた日蓮仏法は日蓮正宗な

どという一宗派の占有物ではなく、人類全体のために遺されたものであるからです。

創価学会は日蓮正宗などに囚われず日蓮大聖人と日興上人の御教示通りに日蓮仏法を実践してきたが故に、その信心に偉大な功徳が現出したと確信しております。しかしながら今後、創価学会が日興門流の教義を捨てて身延派などと同調する事態が生じたならば、これまでの功徳と成仏の道を閉ざすことになりかねないと憂慮せざるを得ません。

『教学要綱』は、日蓮大聖人について言葉だけ「末法の御本仏」と称しながら、あくまでも「釈迦仏の使い」と位置づけ、「一大秘法」「法宝」の内容を身延派と同一にし、「僧宝」から日興上人を排除しました。これほど重大な教義の改変を行いながら、師範会議や最高指導会議など、会内で十分な議論がなされた形跡が見られません。創価学会の根本教義を変える重要問題を一部の研究者ら一握りのメンバーによる議論だけで決定してよいのでしょうか。

日蓮正宗が邪教と化した今日、正しい日蓮仏法は創価学会にしかありません。

しかし、その創価学会が『教学要綱』の路線を突き進んで日興門流から離れ、身延派と同化していったならば、それこそ仏法消滅となってしまいます。本当にそれでよいのでしょうか。それとも、相伝書や「御義口伝」などを一切無視していても『教学要綱』は身延派と同化しておらず問題ないと確信しておられるのでしょうか。

現在でも「創価新報」「聖教新聞」の教学解説記事、また「観心本尊抄」の解説書など、既に『教学要綱』の路線に沿って作成されているように見受けられますが、それは危うい事態と思っております。ここまで『教学要綱』の問題点が明らかになった以上、『教学要綱』を教学の基準にすることを一旦停止して、池田先生が後世のために遺された『法華経の智慧』やかつての『教学の基礎』の線に戻すべきであると考えます(「戒壇の本尊」の扱いなどは改めなければなりませんが)。

『教学要綱』の問題は、創価学会の命運に関わる重大問題です。ひとたび出版した以上改められないとするのではなく、いちど撤回して、再度、会内全体で十分に熟慮・検討していくべきではないでしょうか。

私は、十一歳の時に母に導かれて創価学会に入会して以来、今日で六十一年になります。その間、日蓮大聖人の大仏法の功徳に浴し、宿命転換と一生成仏の道を歩んでくることができました。正しい仏法を教えてくれた創価学会と三代会長に限りない大恩を感ぜずにはおれません。創価学会がこれからも仏法上の「正しさ」を堅持して発展していって欲しいとの心情から、拙著とこの書簡をしたためました。

会長におかれましては、会の未来のため、なにとぞ賢明な御判断をくださいますよう、お願い申し上げます。

敬具

二〇二四年九月十二日
須田晴夫拝
原田稔様