【投書】須田晴夫氏著「『創価学会教学要綱』の考察」を読んで
投書者:一粒種
先般、あの「法華経の智慧」での池田先生の対談者である、須田晴夫氏(元副教学部長)が、「『創価学会教学要綱』の考察」という本を出版されました。
この本を読み終えて率直に感じたことは、創価学会の教義が、原田会長を中心とする中枢によって日蓮仏法の本義を破り、身延派等にも劣るとんでもない邪義に改変されてしまったという驚愕です。本書全体からは、現学会のあまりにも常軌を逸した変節ぶりに対する深い憂慮と強い義憤が伝わってきます。
内容は、単なる現学会教学の問題点の指摘や批判のみではなく、なぜ末法においては大聖人を本仏と仰がねばならないか、なぜ大聖人所顕の文字曼荼羅を本尊としなくてはならないかなどといった、日蓮仏法の核心的ポイントなども踏まえ、深くもわかりやすい論調で丁寧に解説されており、とても読みやすく理解が深まりました。
本書では、現学会教義の致命的な誤りとして、大きく以下の4点等を挙げ、御書や日寛上人文献、三代会長指導などを通し明瞭に破折しています。
1・大聖人を”釈迦の使い”とし、釈迦を上位、大聖人を下位に位置付け、身延派等と同義の釈迦本仏論に堕して日蓮本仏は有名無実化していること。
2・大聖人は「末法に入りぬれば、余経も法華経もせんなし、ただ南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と、明確に述べられているにも関わらず、大聖人が”文上の”「法華経」を根本の経典と定め万人成仏の新しい修行法を確立したとしていること。
3・一大秘法の意義を従来の「本門の本尊」から「南無妙法蓮華経」と単に法のみに改変し、身延派等の教義と同化させたこと。
4・三宝における僧宝について、「日興上人」を外し「創価学会」に改変したこと。
等々。
加えて、学会本部がこれら一つひとつの教義改変について、なぜそのように変えたかといった説明を一切せず、まさに「言ったもん勝ち」「やったもん勝ち」的な態度であることに対し須田氏は、「説明責任の放棄であり、無責任、不誠実との非難を免れない」(『創価学会教学要綱』の考察 p.62)、「会員に気づかせないよう、こっそりと教義改変を進める態度は『だまし』と言われても止むを得ないだろう。」(同書 p.164)等と厳しく糾弾しています。
さらに須田氏は、「『教学要綱』の内容は生前の池田の思想とは大きくかけ離れており、同書が池田の監修を謳っていることはいわば池田を利用した態度であると評せられよう。」(同書 p.135)と、執行部が「池田先生の監修」という言葉を金科玉条の武器として振り回し、純真な会員を欺いていることを指弾しています。
私が一番許せないのもこの点です。会員に有無を言わせないために池田先生を利用し、さらには一切の責任を池田先生に押し付けています。そのため宗門をはじめ他宗からの批判、攻撃の矛先が全て池田先生に向けられているにも関わらず本部はそれらの批判に何ら反論するそぶりもみせません。何と卑劣な連中でしょうか。
私のまわりにも「池田先生のつくられた組織が間違いを犯すわけがない」と、純粋に組織を信じて疑わず活動にいそしむ会員の方々がたくさんおられます。現執行部は、そのような会員の純粋さにつけ込み利用し、だまし、食い物にしているのです。本当に胸の底から怒りがあふれます。
本書は、現学会の化けの皮をひきはがすと共に、真の実態を知るための絶好の一書であると思います。
須田氏は本書の結びに、「宗教の教義はそれぞれの信仰者にとって、人生観、価値観を形成する根幹となりものである。各人の信仰生活の生命ともいうべき根本教義が事前の説明もなく突然改変され、その受容を要求されるような事態は、心の静穏を害するという意味で宗教的人格権の侵害となる恐れすら生ずるのでなかろうか。」(同書 p.167)と述べられています。
私も同じく現学会を憂う一人として、一人でも多くの会員に本書を読み学んでいただき、誤った組織依存から脱却し、共々に自立した信仰者として正しい仏法を実践していけることを切に願いつつ、啓発に努めていこうと思います。
全く同感です。目眩しにあっている一般会員は別としても、かつて先生の監修で発行された「青年部教学シリーズ」に参加して研鑽をされた各地の教学研鑽グループの方々や、憂宗護法や改革同盟の僧侶たちはどう思っているのでしょうか。
大体、宗教教団にとって生命線とも言える教義の変更を、本一冊出して事足れりとするその不誠実な姿勢に現執行部の心底が透けて見える
いっこく堂さま
コメントありがとうございます。
本当におっしゃる通りだと思います。
一人でも多くの方がこの本を読んで真実を知り、目覚めていただきたいです。
教学研鑽グループ、憂宗護法や改革同盟などの方々も勇気と信念を持って立ち上がってほしいですね。
私もこの須田さんの書籍を読みはじめました。子供の頃から学んできた創価学会の教学•教義が、知らない間に改変され、否定されていることに、怒りを通り越して情けなさでいっぱいです。この事実は行き着くところは、池田大作先生を否定していると感じます。私は創価学会の組織を卒業させていただきましたが、心ある会員の皆さまには、是非ご一読いただきたいと思います。
SANTAさま
コメントありがとうございます。
私も全く同感です。
まさに「建設は死闘、破壊は一瞬」との思いを深くしています。
同時に、学び続けることの大切さをあらためて感じました。
追伸
二代・三代が
日蓮正宗を利用したように
原田・谷川学会も
政権与党の特権を学会存続に優位に利用しながら
世界宗に向けて、プロテスタントの佐藤優等に広報的な役割を
させて、学会の勢力拡大に取り組んでいると捉えれば
二代・三代も原田学会も
やっていることは同じだと言えるのではないでしょうか。
これも一つの見方にすぎませんが…m(__)m
以前、金原氏を迎えての勉強会に参加させて頂きました。m(__)m
要綱の考察にあるように須田氏も金原氏と同様に
日蓮正宗が根本とし、日寛教学体系の根幹ともなる出世の本懐・弘安二年日蓮図顕本尊を
日禅模写として日蓮図顕を史実否定しています。
創価学会の二代・三代会長は
この弘安二年図顕本尊を絶対・不動のものとして半世紀以上ものあいだにわたり純真な学会員に信じ込ませてきました。
二代の分身散体の原理、小樽問答、三代の正本堂建立寄進、日寛教学の積極的な学習なども全て弘安二年図顕本尊を根本、根幹とし
て800万世帯と折伏・弘教してきました…
堀日享は弘安二年日蓮図顕本尊は史実にあらずと認識していました…
もし仮に
二代・三代が初めから弘安二年日蓮図顕本尊など存在していない事実を知っていたとしたらどうでしょう。
日蓮正宗も日寛教学もまた学会員も、総体革命の名のもとに創価学会の勢力拡大の単なる道具となり、
そこには一人を大切にする、誠実などという言葉は単なる看板文句にすぎず、教学的な整合性も、教義変更に伴う責任説明も、大きな変遷に対する過去への総括も、反省もへったくれもはなっからなくなります。
教義変更の説明は、説明しないのではなくて、上記理由から説明できない、説明する必要もないのかもしれません…
ともあれ
二代・三代を絶対視する思考性も
今一度、客観的立場に立って考え直してみることも大事ではないでしょうか。
私はただ本当のことが知りたいだけです。
信仰とは両刃の剣のようなもの
とはよく言ったものですね!
m(__)m
今極宏さま
コメントありがとうございます。
これまで定説とされてきた事柄が、後年の研究によりそれまでの説や伝承とは異なる事実が判明することは歴史学のみならず様々な分野で当然起こりうることと思います。
弘安二年の板御本尊に関する伝承についてもしかりです。
大切なことは、新たに判明した事実と過去の双方に誠実に向き合い、そこから新たな意義や価値を見出していくことではないでしょうか。
今極宏さまのご意見は尊重致しますが、私には今極宏さまが何か大きな考え違いをなさっているように感じられます。
ここで議論を尽くすのは不可能ですので、よろしければぜひ自活座談会やオンラインスタディにご参加頂き、信心の触発を通しつつ疑問については納得いくまで語り合っていきませんか?
その上で、まずはいま一度信心の原点に立ち帰り、じっくり御本尊と向き合い、唱題してみてはいかがでしょう。必ずや打開の道がひらけることを確信致します。
ご丁寧なご返事ありがとうございます。
そうですね!
機会があれば是非、前向きな意見交換をさせて頂きたいと思います。
ありがとうございますm(__)m
今極宏様へ
>二代・三代も原田学会も
>やっていることは同じだと言えるのではないでしょうか。
私が「人生の師匠」としている池田先生と原田会長を同列に位置付けた文言が見受けられたので一言、今極宏様に申し上げます。
>二代・三代が日蓮正宗を利用したように
二代・三代が日蓮正宗を用いたのは、不幸の人々を幸福に導くためであって学会の勢力拡大のために日蓮正宗を利用したのではありません。あくまでもその目的は「民衆の幸福のため」です。
原田・谷川学会などとは次元が違うし、やっていることも同じではありません。
>これも一つの見方にすぎませんが
私の経験上、このような見方をする人は一信仰者というよりも、物事の表層面を見てしか判断できない、また物事の奥にある本質を見ようとしない「似非評論家」にある傾向だと考えます。
夏目漱石いわく「形を見る者、質を見ず」という言葉がありますが、まさにそれです。
上っ面の事実に振り回されるのではなく、本質を見抜く目を養うことを望みます。
ご返事ありがとうございます。
日蓮正宗はそもそも「作り法門宗」という認識を持っています。
半世紀以上にわたり、戦後、民主主義となり信教の自由となった時代において、出世の本懐・弘安二年十月十二日・日蓮図顕本尊を二代・三代を通して私自身も含め、純真に信じてきた分、弘安二年日蓮図顕という史実はなく日禅の模写という事実を知った時は、天地が転変するほどのショックであり、それを教えてきた創価学会に大不信を抱きました。
出世の本懐・弘安二年日蓮図顕本尊を大確信を持って学会員に諭してきた二代・三代に一信仰者として不信を抱くのはあたり前のことだと思います。
いづれにせよ
こういう議論は一粒種さんが仰っていたように対面を持ってしなければお互いになかなか真意が伝わらないと思います。
機会があれば、マスオさんとも建設的な意見交換が出来れば幸いです。
私も2014年までは、毎月欠かさず三代の同時放送は単座して拝聴しておりましたm(__)m
訂正
2014年→2010年
m(__)m
今極さま
今極さまの理屈ですと、現在貴殿が拝める御本尊は無いように思われますが、そのことで信仰そのものまで捨ててしまわれたのではないかと心配しております。
そうでなければ良いのですが、、、
はじめまして
いわゆる
内得信仰をしていますよ!
御心配下さり
ありがとうございますm(__)m
金原氏を招いての自活勉強会で司会をされていた林信男さんの最近のXに、創価学会教学要綱について
「釈尊・日蓮という原点に還り、本来の仏教、日蓮仏法を鮮明にした…」
「日蓮真跡遺文を中心に組み立てられている教学要綱はグローバルな教典」
と高く評価されています。
このように、物の見方・考え方は個人個人によって当然違いがあるのは当然であり、三代を絶対視する思考性も真実を見失う危うさがあると思います。
最後に
須田氏の考察の結びで一粒種さんの前文にありましたが、
「宗教の教義はそれぞれの信仰者にとって、…根幹となるもの」
まさに
半世紀以上、出世の本懐・弘安二年十月十二日・日蓮図顕本尊を根幹として信仰をしてきたその根幹が、日禅模写だったという事実を知った瞬間、「いったい、今までの自分はなんだったんだ」と理屈抜きに純真に信仰に励んできた人ほどそのショックたるや…
三代存命中の創価学会から真実を主張した金原氏を除名処分した事実も三代不信へ要因の一つとなっています。
不信を抱いてしまうのは私だけではないと思いますm(__)m
日蓮が残した本尊は、日蓮の命(仏の生命)の設計図です。
設計図はだれが何枚コピーしても家は建ちます。
戸田先生の本尊流布はあくまでも戦術(手段)であり、ご本尊を受持して、日夜、ご本尊を拝んで、幸福実現、宿命転換していくことこそが戦略(目的)です。
硬直した古い思考ではなく、柔軟な思考を持って、新時代を建設していこうではありませんか。
謗法の山にある弘安2年の本尊は受持の対象にしないなど、まったくナンセンスな発言です。
だったら日昇が書いた本尊を大誓堂や、関西本部に安置し、会員には日寛の本尊を拝ませているのは矛盾です。
かつての霊友会が会長久保継成の本尊を会員に拝ませたように、創価学会会長が書いた本尊を拝ませるようになるのも近いことでしょう。