開目抄について③

2023(令和5年)1月度オンラインスタディで講義して頂いた内容を、ご本人の了承のもと掲載させて頂きます。


グリグリ著

開目抄について③

皆様、こんばんは。それでは始めさせていただきます。
権実相対を始める前に、前回の「大小相対」についてのおさらいと補足をしたいと思います。

(1)大小相対の概要とまとめ
大小相対の基準(骨子)は、戒律(規則)ばかりにとらわれ、自己の悟りのみに専念する「自利の解脱(阿羅漢)」を目指す小乗教と、迷い苦しむ他者へ目を向け、慈悲の心と実践によって、煩悩の迷いに負けない自己を確立しようとする「利他の菩薩」を目指す大乗教との対比であり、勝劣です。
そもそも釈尊がこの世に現れた目的は何かといえば、「衆生に仏の悟りの内容を開き、示し,また仏の悟りの内容を悟らせようとし,仏道に入らせようとするため」(法華経方便品)です。すなわち釈尊の説法は、すべての衆生を仏道に入らしめ、成仏させんがためのものでした。
これを「開示悟入」というのですが、釈尊と不二の自覚に立つ門下ならば、自己の解脱のみにとらわれた小乗の教えを根本とはせず、むしろ自己の煩悩と戦いながらも、迷い苦しむ他者に目を向け、釈尊と同じこと(開示悟入)をすると思います。
釈尊滅後、正法時代に起こった小乗教徒と大乗教徒の対立は、内道(仏教)における最初の相対であり、その中心軸は、「自利」のみの悟り(解脱)を目指すのか、それとも釈尊在世の原点に帰る「自他」共の悟り(解脱)を目指すかの「方向性」と「選択」の違いであったと思うのです。
歴史的に見て、釈尊滅後から百年前後を境に仏教教団は、出家僧を中心とする「上座部」系統と、在家信者を中心とする「大衆部」系統に分裂し、「根本二部・分裂」の時代を迎えています。のちに上座部、いわゆる小乗系統は南方へ伝えられ「スリランカ・タイ・ミャンマー・カンボジア・ラオス」など、今日の南伝仏教の源流となっています。それに対して、インドから「西域(今のパキスタン・アフガニスタン・タジキスタン)・中国・韓国・日本」に伝えられた仏教は、北伝仏教と言います。
もし、正法時代に大衆を中心とする「大乗教徒」と、出家僧を中心とする「小乗教徒」の対立が起こらなかったならば、仏教はインドから中国・日本へとは伝わらなかったかも知れません。その理由は、小乗教団の多くは出家僧の集団であり、その中心的教義も「自利」のみの解脱を目指す実践が中心だったからです。まさにそれ自体が、社会から遊離した宗教であり、布教精神などは到底、起こり得ないでしょう。
小乗教徒たちの発想は、「解脱を目指して極楽世界に、いざ出発! もう二度とこんな娑婆世界にはもどらない――以上、これで終わり」というものです。
そのような小乗教徒の姿を見て、大乗教徒たちは「解脱して自分だけとっとと極楽へ行くような奴が、本当の仏と言えるのか?」――と思ったことでしょう。このような疑問から小乗に対する疑念が生まれてきます。そして、「自分のことしか考えない仏だったら、解脱しようとしまいと、苦しみながらでも常に菩薩の心で人助けをする人のほうがよっぽど有難いじゃないか」というのが、大乗教徒たちの偽らざる気持ちだったのではないでしょうか。
大乗教徒たちはバラモンや小乗教徒たちとも積極的に論争し、それらの思想を打ち破っています。自利の解脱だけを求め、大衆を化導する「利他の実践」をおろそかにした小乗教徒とは違い、大乗教徒たちは自らの仏道修行はもちろんのこと、苦悩に沈む大衆を広く教化していくことにこそ、釈尊の本来の精神があったのではないかと主張したのです。言い方を変えれば、大乗仏教運動は釈尊の「本意の教え」、つまり、原点に立ち還る実践だったのだと思います。
釈尊滅後七百年ごろ、竜樹が南インドに現れて大乗仏教を大いに宣揚し、さらに滅後九百年ごろ、天親(世親)が現れ、仏教思想を教学的に体系化します。この竜樹から天親への流れは、そのまま仏教思想の深化を示しています。しかし天親はこの段階にとどまらず、さらに一歩ふみこんで「識」の根本にある「アラヤ識」という概念を導き出します。
これは、釈尊滅後百年から数百年の間に仏教教団が分裂したアビダルマ仏教の段階において「識」は眼・耳・鼻・舌・身・意の六識とされていたものが、大乗にいたって「マナ識」という第七識を加え、さらに第八識「アラヤ識」の概念を打ち立てたことによって、ほぼ「識」の構造が確立されました。
さらに仏教が中国へ渡ると、天台は第八識「アラヤ識」の上に、万物を貫く本性、すなわち覚りの法性が現れた「覚りの境地そのもの」である「アマラ識」を加えて第九識を立て、「九識論」の全体がようやく完成します。
仏教には、大きく分けて、天親を始めとする「唯識」系と、竜樹を始めとする「空観」系の二つの系統仏教があり、竜樹・天台・伝教、そして大聖人は、竜樹の空観系仏教の流れに属します。
ちなみにこれは余談ですが、天台はこの「唯識論」から派生した「大乗起信論」、いわゆる如来蔵思想を批判して、「実相論」を立てています。
この大乗起信論、いわゆる「如来論」は、第八識のアラヤ識から一切法を生ずるという考え方ですが、天台の「実相論」は、「円融相即・一即一切」という考え方です。すなわち「空」という思想(法)は竜樹を経て、天台になると「三諦円融」という思想(法)となって説かれていきます。
天台は、あらゆるものが円融相即しているから諸法(事象)と実相(真理)も当然、円融相即していると説きました。つまり、諸法即実相、実相即諸法であり、諸法がそのまま実相、実相がそのまま諸法であるという意味です。
したがって、天台の実相論から見れば、識(心)から一切法を生ずるという発想そのものがなく、天台教学においては「六識」でこと足りるのですが、経論に「九識論」があるので、あえて生命の微妙な一念の奥底に七識・八識・九識があるとすれば、それらの三識もまた円融相即しているにすぎないと天台は論じているのです。
後に竜樹は八宗の祖師と呼ばれるようになるのですが、仏教が中国へ、日本へと本格的に伝えられ、数々の宗教が誕生しますが、そのいずれも竜樹が淵源であるといいます。それほど竜樹は仏教界に大きな影響を与えていったのです。

――以上が、正法時代におこった大小相対の大きな流れです。

(2)権実相対の基準と教判
さて前回の講義で、仏教の中には様々な教えがあり、その教えの内容によって「経典」には高低浅深、また勝劣があると言いました。

◆開目抄(新版54㌻)
【1】釈尊一代の聖教は皆、真実ではあるが、八万法蔵の経典を詳しく読めば、小乗も大乗もあり、権教も実教もあり、さまざまな差別がある。
【2】ただ法華経だけが教主釈尊の正言であり、三世十方の諸仏の真言なのである。

◆権実相対の対比
【1】爾前教   (権教)  説法期間 ― 四十余年
【2】法華経   (実教)  説法期間 ― 八年

大聖人は開目抄の中で「釈尊一代の聖教は皆、真実ではあるが、八万法蔵の経典を詳しく読めば、小乗も大乗もあり、権教も実教もあり、さまざまな差別がある」(趣意、54㌻) と述べられたあとに「ただ法華経ばかり教主釈尊の正言なり、三世十方の諸仏の真言なり」(新版54㌻)と述べています。
これは、法華経以外の教えはすべて「法華経」に至るための方便であり、法華経こそが本当に説きたかった仏の真実の教えであるという意味です。
権教とは「権(かり)の教え」「方便の教え」という意味で、法華経以外の経典を「権教」または「爾前経」と云います。それに対して、法華経を「実教」と呼び、「まことの教え」「真実の教え」という意味です。すなわち権実相対は、法華経以外の教え、いわゆる「爾前・権教」と、実教たる「法華経」との相対です。
大聖人は開目抄の中で、四十余年間に説かれた爾前・権教の教えは、「未だ仏の真実の悟りを顕していない教えである」と述べられ、その後の八年間に説かれた実教たる法華経こそが「当に仏の真実を説いた教えである」と決定し、実教が勝れ、権教は劣ると結論付けています。
ちなみにこの権実相対は、すでに像法時代に活躍した天台大師によって確立されており、日本では伝教大師が権教を打ち破って、実教たる法華経迹門の「大乗戒壇」を比叡山に建立しています。大聖人はおもに天台の教判を用いて「権実相対」を述べられているのですが、なぜ天台・伝教によって権実相対の決着がついているのに、天台以降、諸宗が雲のごとく起こり、権実雑乱の状況が再び起きたのでしょうか。

【権実雑乱の理由】開目抄(新版56㌻)

【1】その後ようやく世おとろえ人の智あさくなるほどに天台の深義は習いうしないぬ。

【2】他宗の執心は強盛になるほどに、ようやく六宗・七宗に天台宗おとされてよわりゆくかのゆえに、結句は六宗・七宗等にもおよばず。

【3】いうにかいなき禅宗・浄土宗におとされて、始めは檀那ようやくかの邪宗にうつる。

【4】結句は天台宗の碩徳と仰がるる人々、みなおちゆきて彼の邪宗をたすく

しかも天台が「権実相対」の論争に終止符を打たれたのは、大聖人が生まれる六百三十年前のことであり、伝教が日本で「権実相対」の決着を付けてからすでに四百年の歳月が経っていました。
大聖人はその理由を開目抄の中で「その後ようやく世おとろえ、人の智あさくなるほどに、天台の深義は習いうしないぬ。他宗の執心は強盛になるほどに、ようやく六宗・七宗に天台宗おとされて、よわりゆくかのゆえに、結句は六宗・七宗等にもおよばず、いうにかいなき禅宗・浄土宗におとされて、始めは檀那ようやく、かの邪宗にうつる。結句は天台宗の碩徳と仰がるる人々、みなおちゆきて彼の邪宗をたすく」(新版56㌻)と解説しています。
要するに、天台宗の「徳の高い僧侶」――学会でいえば最高幹部のことです。その責任ある指導者たちが教学を学ぶことを怠り、師匠の教えを蔑ろにして堕落していった。その反対に、天台以降に誕生した諸宗は、天台の教判を学び、たくみにそれを盗み入れるなどしていた。その結果、過去に決着を付けたはずの諸宗にまでバカにされ、結局それらの邪宗を助けるまでに落ちていったというのがその理由です。

◆大聖人御在世当時の社会も「権実雑乱」の雲に覆われていた◆
【如説修行抄】 (新版603㌻)
今の時は権教即実教の敵と成るなり。
一乗流布の時は権教有って敵と成りて、まぎらわしくば実教よりこれを責むべし。
これを摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり。

【大聖人の第一の課題】
1.当時の社会を覆っていた権教の雲を払う。
2.権実相対を全面的に表に出し。
3.天台以降に派生した邪義を打ち破っていく必要があった。

大聖人御在世当時の社会もまさにそのような「権実雑乱」の雲に覆われていました。そのため、まずは「今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有って敵と成りて、まぎらわしくば実教よりこれを責むべし。これを摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり」(如説修行抄、新版603㌻)と述べられているように、当時の社会を覆っていた権教の雲を払うという課題があったのです。そのため、権実相対を全面的に表に出され、大聖人は天台以降に派生した邪義を打ち破っていく必要がありました。
したがって権実相対の元意は、権(かり)の教えと真実の教えの相対であり、法華経のみを仏の真実の教えとし、その他の爾前権教はその「真実」の教えを説くための「かり」の教えであると区別するところにあります。この権実相対を明らかにすることによって、膨大な経典に一つの位置付けが行われ、何が根幹で、何が枝葉か、また何が根本の真理で、何が付随的なものなのかが示され、釈尊の経典なら「何でも良い」といった仏教内における混乱が避けられるようになっていきました。

(3)権教と実教を立て分ける根拠は何か

問題1法華経を実教とし、法華経以外の経典を権教とする立て分けが、いったい何を根拠にされたのか?

【開目抄】 (54㌻)
一念三千は十界互具よりことはじまれり

【解説1】
一念三千の法門こそが成仏に至る「究極の法」であるとの観点から、この一念三千が成り立つための必要不可欠の法理、すなわち「十界互具」が法華経以外の経典には明かされておらず、法華経のみがそれを明かしている。

【解説2】
ゆえに実教たる法華経こそが「仏の真実の悟り」を説いた経典であり、法華経以外の経典は、すべて方便(権教)の教えである。

 ※権実相対の根本的な意味での立て分けの根拠は、まさにここにある!

問題は、法華経を実教とし、法華経以外の経典を権教とする立て分けが、いったい何を根拠にされたのかということです。――ここからは大事なところなので、もう一度、前回の講義を振り返りながら話を進めていきたいと思います。大聖人は一代聖教の勝劣・浅深を判定するに当たり、まず「釈尊の説いた一代聖教は皆、真実の言葉であり、その言葉には一切ウソがない」と定義します。これを前提として、一代仏教の勝劣を判定するにあたり、何を仏教の根本と見、何を基準に諸経・諸宗の勝劣を判定するか、また「すべきか」を提示されます。そしてその基準にすべき根本の法理が、いわゆる「一念三千の法門」です。
大聖人は開目抄の中で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(新版54㌻)と述べられ、一念三千の法門こそが成仏に至る「究極の法」であるとの観点から、この一念三千が成り立つための必要不可欠の法理、すなわち「十界互具」が、法華経以外の経典には明かされておらず、法華経のみがそれを明かしている。ゆえに実教たる法華経こそが「仏の真実の悟り」を説いた経典であり、法華経以外の経典は、すべて方便(権教)の教えであると述べられています。権実相対の根本的な意味での立て分けの根拠は、まさにここにあります。
そうすると、法華経以外の経典を権(かり)の教え、方便とする意味はいったい何だったのでしょうか。

【蒙古使御書】 (新版1947㌻)
【1】万法は己心に収まって一塵もかけず、九山八海も我が身に備わって日月・衆星も己心にあり。
【2】しかりといえども、盲目の者の鏡に影を浮かべるに見えず、嬰児の水火を怖れざるがごとし。
【3】外典の外道、内典の小乗・権大乗等は、皆、己心の法の片端・片端説いて候なり。
【4】しかりといえども、法華経のごとく説かず。しかれば、経々に勝劣あり。

この疑問に対して、大聖人は「万法は己心に収まって一塵もかけず、九山八海も我が身に備わって日月・衆星も己心にあり。しかりといえども、盲目の者の鏡に影を浮かべるに見えず、嬰児の水火を怖れざるがごとし。外典の外道、内典の小乗・権大乗等は、皆、己心の法の片端片端説いて候なり。しかりといえども、法華経のごとく説かず。しかれば、経々に勝劣あり」(蒙古使御書・新版1947㌻)と述べられました。
要するに、法理上の意味で、複雑・深遠な生命の全体像を法華経で明らかにするに先立って、部分部分を明かす必要があったということです。もう一つは、釈尊が自身の悟った「真理」をただちに説いたとしても、衆生(弟子たち)には、それを理解し信受できる機根が整っていなかった。だからその機根や理解する能力を徐々に向上させるために、四十余年間の方便的・化導を必要としたのです。このことも大聖人は「当体義抄(釈尊五百塵点劫の当初…)」(新版613㌻)等で言及されています。
さて、これまで権教と実教の概略を見てきましたが、根実相対以降は、この「一念三千」を中心軸として勝劣・浅深が論じられていきます。さらに「一念三千の法門」がどの経典に説かれ、諸宗がどの経典を衣経としているかを見ていけば、おのずと各宗派の勝劣が見えてくるというのが、大聖人の諸宗を見る視点であったのです。

【南都六宗】「一念三千の法門」
五宗は「一念三千」という名前も知らない。
1.倶舎宗
2.成実宗
3.律宗
4.法相宗
5.三論宗

二宗は「一念三千の法門」をひそかに盗んで自宗の中心教義とした。
6.華厳宗
7.真言宗

【十界と十界互具】 「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(新版54㌻)
「小乗教(阿含経)」六界を立て四界(声聞・縁覚・菩薩・仏)を知らない。
1.倶舎宗
2.成実宗

八界を立てて十界は知らない。ましてや十界互具など知る由もない。
3.律宗
4.法相宗
5.三論宗

一念三千の法門を盗む。
6.華厳宗

前回の講義でも若干触れましたが、大聖人は開目抄の中でこの「一念三千の法門」を通して各宗派の勝劣を論じています。まず、南都六宗と呼ばれた「倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗」の内、華厳宗を除く他の五宗は「一念三千という名前も知らない」と述べられ、華厳宗と真言宗の二宗は、一念三千の法門を「ひそかに盗んで自宗の中心教義としている」と破折しています。
先ほど、「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(新版54㌻)との御文を紹介しましたが、大聖人はさらに南都六宗の内、法相宗と三論宗は「八界」を立てて「十界」は知らない。ましてや十界互具の法理などは知る由もないと破折します。また、俱舎・成実・律宗などは小乗教の「阿含経」を依経とし、その阿含経は六界までは明らかにしているが、声聞・縁覚・菩薩・仏の四界を知らないことを指摘して、後世の律宗や成実宗が主張している「十方に仏あり、仏性あり」などと云う論説は、釈尊滅後の人師たちが大乗経の義を自宗に盗み入れたのであろうと痛烈に弾破しました。
以上、各宗派の勝劣を「十界互具」と「一念三千」を通して見てきましたが、今度は「権教と実教」の違いを考えていきたいと思います。
先ほど「権実相対の勝劣はすでに天台が確立し、伝教が決着をつけた」と述べましたが、天台は何をもって権教と実教の違いを論証したのでしょうか。
これについて中国天台宗の妙楽大師は「あまねく法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文、および如来の久成(久遠実成)を明かすの説なし」(止観輔伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ))と述べています。

【開目抄】 (新版57㌻)
ここに、予、愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがえみるに、その相違・多しといえども、まず世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちおぼうることは、
二乗作仏・久遠実成なるべし。

【意味】
法華経以前に説かれた爾前権教と法華経との相違はいろいろあるが、まず世間の学者も「そうだ」と認め、自分でも「そうだ」と思うことは、法華経以外の経典には「二乗作仏」と「久遠実成」が説かれていない。

 また大聖人も開目抄の中で「ここに、予、愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがえみるに、その相違多しといえども、まず世間の学者もゆるし我が身にもさもやとうちおぼうることは、二乗作仏・久遠実成なるべし」(新版57㌻)と述べられました。要するに、大聖人も妙楽大師も主張は同じで「法華経以前に説かれた爾前権教と法華経との相違はいろいろあるが、まず世間の学者も「そうだ」と認め、自分でも「そうだ」と思うことは、法華経以外の経典には二乗作仏と久遠実成が説かれていない」と主張しています。

【確認事項】
法華経二十八品の内
① 前半十四品で「二乗作仏」が説かれる。
② 後半十四品で「久遠実成」が説かれる。

【権実相対】 テーマは「二乗」
主に「二乗」がどのように説かれているのかが、一つのテーマになっているので、正確に表現するならば「爾前権教」と「法華経迹門」の相対です。

【権迹相対】 対比は「権教と迹門」
開目抄に曰く、「この法門は、迹門と爾前と相対して」(新版64㌻)とも述べられている。※権実相対は「法華経・迹門と爾前権教」との相対が中心となります。

そこで、まず確認したいことは、法華経二十八品の内、前半十四品に「二乗作仏」が説かれ、後半十四品に「久遠実成」が説かれています。権実相対はおもに「二乗」がどのように説かれているのかが一つのテーマになっているので、正確に表現するならば「爾前権教と法華経迹門の相対」――つまり、権迹相対と表現することも出来ます。大聖人も開目抄で「この法門は、迹門と爾前と相対して」(新版64㌻)とも述べられていて、権実相対は「法華経迹門と爾前権教」との相対が中心となります。

(4)二乗の特長とその扱い
さて、問題の二乗ですが、仏教において「二乗」は実に不思議な扱いをうけています。たとえば、もっぱら二乗の修行を説いた経典があるかと思えば、二乗を極端にきらった経典もあり、さらには二乗こそが「真実の仏の弟子」であるとした経典もあります。そこで「二乗がどのように説かれているか」によって、経典の性格がかなり明らかになります。言い方を変えれば、「二乗は経典の勝劣を測る基準となりやすい」ということです。天台はこのことに着目し、法華経と一切経の違いを判断していったのではないかと考えます。
ここで、二乗の成仏・不成仏が、なぜ権実相対の基準になるのかを考える上で、一度、釈尊の成道とその目的・目標を六項目に分けて確認しておきたいと思います。

【釈尊の成道と化導の目的(目標)】6項目
【1】釈尊は三世を貫く生命内在の因果の一貫性(因果俱時・不思議の一法)を悟り、それをあらゆる角度から衆生に教える。その集大成が一切経。
【2】釈尊が一切経を説いた目的は、自らが得た悟りを一切衆生に分かち与えんがため。
【3】経典において最終の目標として示されているのは「成仏」。
【4】一切衆生を成仏させるには想像を超える困難が伴うことは、十分に説かれているが、それでもなお、万人が成仏できないなどとは説かれていない。
【5】一切衆生の成仏が不可能であれば、一切経を説く必要がない。
【6】一切経の究極の目標は、一切衆生が等しく成仏することにある。
【結論】釈尊における化導の目的と目標は、一切衆生が等しく成仏すること!

①釈尊は、三世を貫く生命内在の因果の一貫性――いわゆる「因果俱時・不思議の一法」を悟りました。そして釈尊はそれをあらゆる角度から衆生に教えようとされます。その集大成が一切経です。
②釈尊は、何を目的として一切経を説いたのか――。それは自らが得た悟りの境涯を一切衆生にも分かち与えんがためです。
③したがって、経典において最終の目標として示されているのは「成仏」です。
④また、一切衆生を成仏させるには想像を超える困難が伴うことは十分に説かれていますが、それでもなお、万人が成仏できないなどとは説かれていません。
⑤なぜなら、一切衆生の成仏が不可能であれば一切経を説く必要がないからです。
⑥したがって、一切経の究極の目標は、一切衆生が等しく成仏することにあります。

以上、釈尊の成道とその目的・目標を確認してきましたが、天台は各経典において「成仏」がどのように説かれているかを検証し、結論として「一切衆生の成仏」を完璧に説きつくした経典は「法華経」のみであることを論証します。
しかし、経典によっては法華経と同じように「一切衆生の成仏」を説いているものもあります。そうすると、法華経で説かれる成仏と、他の経典に説かれる成仏は同じものなのかというと、天台は「そうではない」「それは違う」と述べています。その理由は、そこに「二乗作仏」があるかないかの違いがあるからです。このように、仏教の中で二乗の成仏・不成仏が、これだけ大きな位置を占めている以上、いかに一切衆生の成仏を説いたとしても、二乗が成仏しなければ「完璧」であるとは云えないのです。そこに二乗の成仏・不成仏を権実相対の基準とする意義もあるのです。
ちょっとむずかしい話になるかも知れませんが・・・・
爾前権教では、十界はそれぞれ固定化された生命の境涯としてとらえられていましたが、法華経迹門ではそれをくつがえして「十界互具」の法理が示されます。
十界互具とは、十界の生命は決して固定化された別々の世界としてあるのではなく、一個の生命の中に十界の境涯がすべて具わっており、縁によって他の界の境涯が現れることを明かしています。このように十界の各界が互いに十界を具えていることを「十界互具」といいます。

【十界互具が「一念三千の法門」のはじまり】
【撰時抄】 (新版161㌻)
一念三千は「九界即仏界・仏界即九界」と談ず。
【意味】 十界互具
九界即仏界 仏界を除く地獄界から菩薩界までの九界の衆生に仏界の境涯が具わっていること。
仏界即九界 成仏した仏にも九界の境涯が具わっていること。

この十界互具が「一念三千の法門」のはじまりなのですが、大聖人は撰時抄の中で「一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず」(新版161㌻)と述べられています。
これは、十界のうち仏界を除く地獄界から菩薩界までの九界の衆生に仏界が具わっていることを「九界即仏界」といい、成仏した仏にも九界の境涯が具わることを「仏界即九界」という意味です。
さて、この十界互具の理屈でいえば、十界の衆生の生命の中に「二乗界」の境涯が内在しているということになるので、二乗の成仏を説かれなければ、自分自身も、一切衆生も、また仏ですら成仏しないということになります。そのような意味から、天台は「十界互具・一念三千の成仏」という完璧な万人成仏の法理は、法華経以外には説かれていないと主張したのです。
ちなみに、十界の中で声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びますが、声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯をいいます。これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯で、又の名を「独覚の境涯」とも表現します。
かつて任用試験の学習会などでは「二乗の境涯」を説明する場合、「舎利弗みたいな頭の良い人、今で言えば学者や研究者、またオリンピック選手のように一つのことを極める一流の人など、大変賢い人の境涯である」と習ったものです。
今にして思えば、「それはちょっと違うんじゃないか?」と思いますが、私が任用試験を受けた当時は、高校生の時で、その頃の私は現役バリバリの不良でした。
そんな私がその説明を聞いた時、「ああ~、それなら俺は大丈夫だッ。そんな賢い頭じゃないから二乗の境涯なんか無い。だから俺は八界の衆生だ」と安心したものです。周りのおっちゃん、おばちゃんも、「わたしら、ド庶民が、そんな高尚な境涯なんかになれる訳ないやん。無理無理、そんな偉い人になんかなれないよ」と自慢げに言っていました。
今思えば、「ああ~、あの時の俺も当時の壮年・婦人も十界互具なんか、信じてなかったんだ」と思います。
そこで今度は「二乗の境涯」、いわゆる「二乗根性」というものを具体的に見て行き、本当に二乗の境涯が万人に具わっているのかを考えてみたいと思います。
まず初めに、先ほどの話でいけば、二乗の境涯は「賢い人・頭脳明晰の人・一流の人」ということになります。確かにその境涯が「二乗」だとする考え方も一理はあります。たとえば、 学者・作家・研究者・評論家・政治家・社会で成功した人、またオリンピック選手など、何か一つのことを極めるということは、中々できることではありません。
しかしその理屈でいけば、平凡に暮らすお母さんもやはり「二乗の境涯」はあるといえます。――その理由は、子育てに専念するお母さんは、赤ちゃんの泣き声を聞いただけで、お腹が空いているのか、おしめを変えて欲しいのかが分かるといいます。そんな超能力みたいな芸当は、とてもオリンピック選手には出来ないし、まして学者や評論家などには、到底、赤ちゃんの泣き声の解析などは出来ないでしょう。また、どこにでもある普通の料理屋さんは、実においしい料理を作ります。政治家や研究者といっても、インスタントラーメンひとつ作れない人もいます。ましてや、料理屋の大将が作るようなおいしい料理なんか作れるわけがありません。また、お母さんは家庭を仕切るプロですが、お父さんはその家庭を運営する資金を調達するプロです。
そのように考えていくと、一切の人々はそれぞれの分野で、皆、二乗的境涯を発揮しています。子育てのプロもいるし、料理の達人もいるし、物売りのプロも、家を作り、ダムを建設するプロもいて、皆、なんらかの形で民衆の役に立ち「利他の役割」を担っています。主婦にしろ、サラリーマンにしろ、職人にしろ、それぞれの分野では皆、優秀な「オタク」なのです。まさにそれこそが、万人の生命に十界が互具されている証明なのではないでしょうか。
そんな優秀な人材を、釈尊は本当に「嫌う」でしょうか。むしろ「よくがんばったね」と褒めるのではないでしょうか。それなのに、なぜ釈尊は「二乗は絶対に成仏できない」と断定し、二乗を徹底的に嫌ったのでしょうか。二乗のどういうところが「気に入らない」のでしょうか。
十界論を初めて学んだ時、私はそのような疑問を持つとともに、十界論の中で「二乗の境涯」が一番の謎となっていました。

【開目抄】 (新版58㌻)
二種の人有り、必ず死して活きず。畢竟して恩を知り、恩を報ずること能わず。一には声聞、二には縁覚。
【二乗の欠点】
自分自身は悟ったと思っているけれども、利他の実践が欠けている。その結果、人に教えてもらった恩を忘れ、その恩に報いるために他者を利する実践もしない不知恩の者である。
【開目抄】 (趣意)
外典においても根本の道徳となる孝行と忠義がある。まして仏法を習う二乗は、本来、知恩・報恩の人の手本であるべきなのに、釈尊は、二乗は不知恩の者であると定められた。その理由は、父母の家を出て出家の身となる者は、必ず父母を救うためであるのに、利他の実践はあると言いながら、父母に親孝行もせず、成仏に導くこともしないから、かえって不知恩の者となるのだ。

しかし、大聖人はこの疑問に対して、大集経の御文を引いて明快に答えています。開目抄には「二種の人有り、必ず死して活きず。畢竟して恩を知り、恩を報ずること能わず。一には声聞、二には縁覚なり」(新版58㌻)と、大集経の御文を明示され、二乗の最大の欠点は「自分自身は悟ったと思っているけれども、利他の実践が欠けている。その結果、人に教えてもらった恩を忘れ、その恩に報いるために他者を利する実践もしない不知恩の者である」(趣意)と解説しています。
さらに大聖人は「外典においても根本の道徳となる孝行と忠義がある。まして仏法を習う二乗は、本来、知恩・報恩の人の手本であるべきなのに、釈尊は、二乗は不知恩の者であると定められた。その理由は、父母の家を出て出家の身となる者は、必ず父母を救うためであるのに、利他の実践はあると言いながら、父母に親孝行もせず、成仏に導くこともしないから、かえって不知恩の者となるのだ」(趣意)と述べられました。
要するに、二乗の一番の欠点は頭が良いからではなく「恩知らず・不知恩」という人格にあるのです。およそ一つのものを極めようとするならば、そこには必ず父母の協力なり、友の励ましなり、教えてくれる先輩や恩師という存在があります。ところが、二乗根性の人格者は、それらに感謝するどころか、親が子を育て、先輩が後輩の面倒を見、師匠が弟子に教えるのは当然のことだと思っているのです。
しかも質(たち)の悪いことに、二乗根性の人格者はその恩に報いるために、自分がしてもらったことを、今度は人に返そうとはせず、まるで自分一人で出来上がったような増上慢の姿に変貌し、やがては人を見下すようになります。挙句の果ては、自分の名声のために人を利用し、自分のためだけにしか行動しないというのが、二乗根性の本質ではないかと考えます。
池田先生は、よく青年部や未来部に対して「友人を大切に、お父さんお母さんを大切に、親孝行しなさい」と呼びかけます。先生はむずかしい理屈を知らなくても「親孝行」できる人間に成長することが、実は二乗根性を自然の内に冥伏させることにつながると考えていたのかも知れません。そう思うと、今さらながら先生の弟子に対する慈愛の深さを感じます。

【開目抄】 (新版58㌻)
いかにいわんや、仏法を学せん人、知恩・報恩なかるべしや。
仏弟子は、必ず四恩をしって知恩・報恩をいたすべし。
【大聖人の厳命】
外典においても、根本の道徳となる孝行と忠義があるのに、ましてや仏法を学ぶ人が、恩を知り、恩を報ずることがないはずはない、必ずある。
仏弟子は、必ず四つの恩を知って、知恩・報恩を実践すべきである。

大聖人も開目抄の中で「いかにいわんや、仏法を学せん人、知恩・報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩・報恩をいたすべし」(新版58㌻)と述べられています。すなわち大聖人は「外典においても根本の道徳となる孝行と忠義があるのに、まして仏法を学ぶ人が恩を知り、恩を報ずることがないはずはない、必ずある――。仏弟子は必ず四つの恩を知って知恩・報恩を実践すべきである」と厳命しています。
繰り返しますが、この「恩知らず・不知恩」というのが、二乗の最大の欠点であり、釈尊のもっとも嫌うことだったのです。このように考えていくと、二乗の境涯は間違いなく、私たちの生命に内在していると思うのです。だから、天台も、伝教も、大聖人も、十界互具・一念三千の成仏が完璧に説かれた経典は「法華経」のみであると主張しているのです。

(5)法華経は万人成仏の経典
――さて、話は権実相対にもどります。
実教たる法華経迹門の「二乗作仏」のほか、成仏の課題となるものに「悪人成仏」があります。つまり「仏法に無知な者」いわゆる世間的な悪人と、「邪智の者」これは、出世間(出家僧)の悪人のことです。仏教界では、特に邪智の者が成仏するかどうかも古来、議論されてきました。また「不信・謗法の者」をどう扱うかは、仏教に限らず、他の宗教でも重大な課題で、キリスト教などは信ずる者のみを救うことにしています。
また、特に仏教においては「女人成仏」も重要なテーマです。この問題も、多くの宗派では、女性の今世での成仏は許しておらず、いまだに女人禁制を強く打ち出している宗派もあります。これら「悪人と女人」の成仏についても、法華経では一念三千の成仏という考え方から、当然ゆるしていますし、そのことは提婆達多と竜女の成仏を例として挙げています。
それでは最後にまとめていきたいと思います。法華経以外の経典をすべて権教とした場合、権教を大乗と小乗に分けることが可能となりますが、大乗では一転して「二乗」が激しく排斥されます。
たとえば、華厳経においては「二乗と一闡提」は成仏しないと説いていますが、その一方では、仏と衆生といってもそこには差別はないと説いています。そうかと思えば、初めて発心したとき、すでに正覚を成ずるとも説いています。こうしたところから、華厳宗などは一切経を五教(小乗教・大乗始教・大乗終教・大乗頓(とん)教・大乗円教)に分け、華厳の教えを円教としていますが、今述べたように、二乗を排斥しているかぎり、円教とはいえないのです。少なくとも「二乗不作仏」を否定する明文がなければ、円教とすることはできません。中国天台宗の義に従えば「華厳経の会座には二乗はいない。二乗のいないところで成仏を説いても二乗は含まれない」としています。また、たとえ居たとしてもそれは「不聞・不信の者」であって、それらに成仏を説くとするならば、最低でも「劫・国・名号」の記別を示すべきであるが、それは示されていないと云っています。それに対して、法華経迹門(方便品)では、二乗に成仏の記別(劫・国・名号)を与えています。

以上、二乗作仏を中心として実教(法華経)と権教(爾前経)を比較してきましたが、実教たる法華経を依経としない宗派が、たとえ一切衆生の救済や成仏を説いても、二乗作仏を基準にすると、如何にいいかげんな宗派が多いのかが理解できます。
権教を依経とする他宗は、自らの誤りを隠すのみならず、法華経を誹謗したところに誤りの最たるものがあります。大聖人が諸宗に対して「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と四箇の格言をもって打ち破られたのは、その「義」の低さもさることながら、法華経に対して誹謗していることをもって「堕地獄は疑いない」と破折されたのです。
大聖人の御在世当時の弟子の中にも、師匠(日蓮)の仏法は「排他的である」という弟子がいましたが、本来、権教のほうが法華経を排斥し、しかも権力と結託して「法華経の行者」を迫害していたのです。如説修行抄の「権教有って敵と成り」という御文を、私たちはよくよく拝していくべきだと思います。

以上で権実相対の講義を終わります。ありがとうございました。