少年日蓮が学んだその地で思う~聖地ではなく言葉と共に

清澄山・・・

少年日蓮が学んだその地を訪ねると、麓の太平洋の大海原とは別世界のような山林、また山林の中にあることに違和感というよりも不思議な世界に迷い込んだような錯覚に襲われます。

寺院内を少し歩けば「千年杉」が堂々とそびえていますが、少年日蓮もこの杉を見ながら学んだのだと「思い出せば」、なんともいえぬ感慨が込み上げてきます。

嵩が森と呼ばれるところに行き階段を登ると一気に視界が開け、山々の向こうに横一直線に広がる太平洋に「一閻浮提」というものを感じられるかもしれません。

少年日蓮が学び青年となり、ここから旅立ち一閻浮提第一の聖人へとその内面は「大いなるもの」へと昇華していくのですが、この地の自然、環境、人々が彼の人格を育んだことを思えば郷土史、寺院史、地理、地学という観点からも、まだまだ解明しなければならないことがあるような気がします。

さて、寺院内にある古鐘の銘文を確認してみましょう。

明徳3年(1392 日蓮滅後111年)の鐘銘には、「房州千光山清澄寺者慈覚大師草創」(造顕・前大僧正法印大和尚弘賢)とあります。清澄寺は天台宗の慈覚大師が「草創」したと伝える寺院でありました。

第3代天台座主・円仁(えんにん)のことを慈覚大師ともいいますが、平安時代始まりの延暦13年(794)に誕生し、貞観6年(864)が寂年と伝えられています。

鐘銘

房州千光山清澄寺者、慈覚大師草創。往昔有鐘、破壊久矣。何以驚睡眠止酸苦。行脚比丘惠闇、参礼虚空蔵大士次、欲発大心補此欠、遍募衆縁、成就其功。仍作銘曰

陶鋳金銅 成大治功 寅夕鯨吼 洪音湧空 響遍高低 啓昏導迷 礼楽既益 号令共斉

上窮碧天 下徹黄泉 赴斉出定 得句悟礼 梵字繁昌 國家安康 檀信有慶 聖寿無彊

明徳三季 壬申 八月 日 当寺主 前大僧正法印大和尚 弘賢

檀那 源朝臣 清貞 幹縁比丘 明了

勸縁比丘 惠闇 大工 武州塚田 道禪

(古鐘と山川智応氏の著「日蓮聖人研究 第一巻」P9)

清澄寺の梵鐘が造立された明徳3年(1392)には、東寺(真言)出身にして醍醐三宝院流親快方の流れを汲む弘賢が寺主となっていました。

源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺の社務職を記した「鶴岡八幡宮寺社務職次第」には弘賢の名があり、鶴岡八幡宮寺第二十代の別当にして東寺流の出身。1355年・文和4年、31歳の時より1410年・応永17年、86歳に至るまで、56年間、関東管領足利基氏、氏満、満兼、持氏の四代を経て在職していました。

弘賢は他に十数カ所の別当を兼務。

相模箱根山・走湯山の二所権現、足利氏の菩提寺・下野足利の鑁阿寺、月輪寺、松岡八幡宮、大門寺、勝無量寺、赤御堂、鶏足寺、大岩寺、越後国・国付寺、安房国清澄寺、平泉寺、雪下新宮、熊野堂、柳営六天宮等、名だたる寺社の別当職でした。要は、良し悪しは別として、宗教界ではそれなりの地位がある人物が別当となるに相応しい「寺格」と清澄寺は位置付けられていたわけです。

日蓮大聖人が学んだ清澄寺を語る時、多くは「天台宗・台密」と語られますが、後の展開と滅後111年後の実態からしても、そこに「真言・東密」の存在も考える必要があるのではないかと思います。

この角度は追々時間をかけて調べていくこととして、今、一つ思うのは「聖地」というものの限界です。

どれだけ少年~青年、そして立教の時から激しい折伏弘教の草創の息吹がそこにあったとしても、時間の経過とともに「思い」というものはその地にはなくなり、ただ「史跡」と化していくということ。やがて観光地となっていき現在に至る。

ですが、残された「文字」「文章」「言葉遣い」からは、「言いたかったこと」「考えていたこと」「伝えたかったこと」等が情熱、勢い、躍動感と共に伝わり、受けとることが出来るのですから、やはり「書いて残す」「それを次の人物が過つことなく伝える」ことの重要性が理解されますし、それらを学び活かすことにより、時空間を超えて「人物の心と志を共有」できることになると思うのです。

『いつでも、どこでも、誰でも、学び、思いを共有し活かし生きてゆく』

ここに御書を、師匠の言葉を学ぶことの意味があるのではないでしょうか。

                                      林 信男