妙法蓮華経の国へ
◇妙法蓮華経の国・・・どのような国なのでしょうか?
上野殿母御前御返事 弘安3年(1280)10月24日
故七郎五郎殿は当世の日本国の人人にはにさせ給はず。をさなき心なれども賢き父の跡をおひ御年いまだはたちにも及ばぬ人が、南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ、無一不成仏は是なり。乞い願わくは悲母・我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて故南条殿故五郎殿と一所に生れんと願はせ給へ。一つ種は一つ種、別の種は別の種、同じ妙法蓮華経の種を心にはらませ給いなば同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし。三人面をならべさせ給はん時、御悦びいかがうれしくおぼしめすべきや。
意訳
故七郎五郎殿は、今の日本国の人々の中にはめったいない立派な方でした。若い故に幼い心ではありましたが賢い父の跡を受け継ぎ、歳も未だ二十歳にもならない人が南無妙法蓮華経と唱えられて仏になられたのです。法華経方便品第二に「一人として成仏せずということなけん」と説かれているのはこのことなのです。
こい願うところは、悲母が我が子を恋しく思われるならば南無妙法蓮華経と唱えられて、故南条兵衛七郎殿・故七郎五郎殿と同じ所に生まれようと願っていきましょう。一つの種は一つの種であり、別の種は別の種です。同じ妙法蓮華経の種を心に孕まれるならば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれることでしょう。三人が再び顔を合わせられるとき、その喜びはいかばかりで、どんなに嬉しく思われることでしょうか。
文永2年(1265)3月8日に夫・兵衛七郎に先立たれ、この年の夏には五男の七郎五郎を亡くした上野殿後家尼(上野殿母御前、上野殿母尼御前、上野尼御前・南条時光の母)への書「上野殿母御前御返事」の一節です。
五男の七郎五郎・・・幼少の頃から、賢いお父さんを髣髴とさせる利発さを見につけていた可愛いわが子。その子が二十歳にもならないうちに早、霊山へと旅立ってしまった。上野殿後家尼は、どんなにかがっかりしたことでしょう。
しかも、前年までの「熱原法難」に関連する余波がいまだあったであろう、その年での不幸です。法難での心労に続き、「最愛の子」を亡くすという事態。
それに対しての魂のこもったこの激励。
妙法を唱えて亡くなった七郎五郎殿は「無一不成仏」は間違いありません。
妙法を唱えて亡くなった夫、息子と同じところに生まれると願いなさい
同じ妙法蓮華経を心に宿しているのですから、同じ妙法蓮華経の国へ生れるのです
あなたと夫と、息子と三人が会ったならば、その時の喜びはどれほどうれしいものでしょうか
いったい、このような慈愛溢れる言葉がどこから出てくるのでしょうか。正に「四弘誓願」の内の「衆生無辺誓願度」の精神の発露を、垣間見る思いがしてなりません。かたちとしては見えないけれども厳然とある「慈悲」から発する言葉であるが故に、「今の時代の同じような境遇」の方々への励ましの言葉ともなっているのでしょう。
ここで思うのです。
現在の世相・経典に説かれる五濁悪世の社会を生きる中で、いつでもどこでも不慮の事件、事故に巻き込まれてしまう可能性がある。また思わぬ病にも。
その時に「信心をしているのになぜ?」と思うのが普通です。
ですが、大聖人は「南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ、無一不成仏は是なり」と、妙法を声高らかに唱えて亡くなった人は、その死に方はともかく「無一不成仏」、成仏しない者は一人もいない(=成仏は疑いない)と強調するのです。妙法を唱える人が十人、百人、千人、万人いたならば、皆共に成仏するのは決定というのです。
ことが起きた時に、取り乱したり、疑うということもあるでしょう。ですが、大聖人は「故人の、その妙法蓮華経口唱の功徳は絶大です」と、それら一切を抱きかかえるようにして寄り添うのです。
亡くなられた方が最後まで持った、妙法の信仰の意味、意義というものは、経典・御書を知るほどに深まりますし、実際そのように「あらゆる人を導くだけのもの」が、この法華経と御書にはあると確信するのです。
◇無一不成仏・・・法華経方便品第二の偈文です。
一切の諸の如来 無量の方便を以て
諸の衆生を度脱して 仏の無漏智に入れたまわん
若し法を聞くことあらん者は 一りとして成仏せずということなけん
そして続きます。
諸仏の本誓願は 我が所行の仏道を
普く衆生をして 亦同じく此の道を得せしめんと欲す
諸仏の誓願は自らが行じた仏道を、衆生にも同じ道を得させることにあると。前に「一切の衆をして、我が如く等しくして異ることなからしめんと欲しき」とある「如我等無異」ですね。
現在の「仏様~をしてください」という、おすがり信心に見られるような「釈尊」を遥か彼方の「超絶の存在」にしてしまうような境界だの、垣根だのと「越えられない一線」はなく、釈尊と等しくなっていくというのです。
妙法蓮華経を宿した人は「妙法蓮華経の国」へ生れる。
妙法蓮華経の国、それは死後の世界みたいなものではなく、夫と息子の菩提を弔う中で、信仰の眼を以て世を見れば、実は現実の世界の中にこそ「今、亡くなった夫、息子と共にいるのだ」「妙法蓮華経の国とは、私が生きているこの世界のことなんだ」と実感されてくるのではと思うのです。
生きて妙法蓮華経の国、旅立っても妙法蓮華経の国、「日蓮が法門・法華経」そして師の心に抱かれて、私達は「いつでも、どこでも妙法蓮華経の国」なのだと思います。
林 信男