佐渡始顕本尊と万年救護本尊の讃文を拝して
文永8年の法難では『かまくらにも御勘気の時千が九百九十九人は堕ちて候』(新尼御前御返事)と一門は壊滅状態となり、佐渡へ流された翌文永9年4月の時点でも、『日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎ねらるる時は殊に喜悦有るべし。大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか』(富木殿御返事)と、いつ首を切られるかもしれない死地と隣り合わせで生きた日蓮大聖人。
「我がいのち、いつ断たれるとも知らず」の大聖人がまず成したことは「開目抄」の執筆であり、同時に曼荼羅本尊の図顕。続いて「観心本尊抄」を著してその法理的意義を鮮明にし、佐渡百幅本尊と称されるほどに、佐渡の在地の人々に妙法を弘めては御本尊を授与したのです。
斬首されながらも生き、島流しになれどもその国に妙法の音声を響かせ『信仰のかたち』を創りあげる生き方は、御本仏であられるからというよりも、仏教の慈悲の精神を体現しながら流れ通わせようとする人間力そのものの発露であるように思えてなりません。そのような人間・日蓮の心を端的に明かしたのが、「諌暁八幡抄」での記述であると思います。
『今日蓮は去ぬる建長五年葵丑四月廿八日より、今弘安三年大歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり』
すべてを失うところから始まった新たな物語りは、曼荼羅図顕により一切衆生を妙法の世界に摂し入れるというものであり、即ち『妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんをかたちとして顕した御本尊』を授与するというものでした。大聖人は佐渡で、身延で数多の御本尊を顕しましたが、その中でも讃文に格別の思いを込めて書かれたのが、佐渡始顕本尊と万年救護本尊ではないかと思います。
日蓮大聖人が顕した佐渡始顕本尊の讃文は、法華経の行者としてのそれまでの妙法弘通、法華折伏の集大成、仏教正統たることの証でもあり、万年救護本尊の讃文には上行菩薩を文の表に立てながら、その意は末法の教主であることを言外に示した、新たなる物語の始まりである宣言であるように拝します。
【 佐渡始顕本尊讃文の意訳 】
仏滅後、二千二百二十余年を経過した今、一閻浮提の内に未だ出現したことのない未曽有の法華経の大曼荼羅を、日蓮が始めて図顕しました。法華経法師品に予言された、「如来の現在、釈尊在世ですら此の経を弘める者に対しては、猶怨嫉が多いのである。ましてや如来滅後においては尚更である」との大難を蒙って、日蓮が仏語を証明しているのです。
此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之
如来現在猶多怨嫉況滅度後 法花経弘通之故有留難事仏語不虚也
【 万年救護本尊讃文の意訳 】
大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴しますが、月漢日(インド、中国、日本)の三箇国では未だなかった大本尊です。日蓮以前の月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていましたが弘めず、或いはこれを知ることがありませんでした。我が慈父(釈尊)は仏智を以て大本尊を隠し留めて(=釈尊より上行菩薩に譲られ)、末法の為にこれを残されたからなのです。後五百歳の末法の時に、上行菩薩が世に出現して、初めてこの大本尊を弘宣するのです。
大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢日三ヶ国之 間未有此大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之
『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて』(開目抄)
斬首されそこない、島流しとなった罪人が顕した曼荼羅本尊。これが同時代の、世間通途の日蓮観であったことでしょう。
しかし、仏法の眼で見れば、妙法を弘める故に殉教するもあまりにありがたく、魂の大歓喜を墨に染め流して書き顕した、出世の本懐たる曼荼羅本尊なのです。
仏法的に確立、成就された日蓮大聖人の信仰歓喜の内面世界と、冷め切った世間の認識の隔たりには「遠い距離」というものを感じますが、そこからは諦めというよりも、人間日蓮の振る舞いに「他者の認識評価ではなく、妙法を明鏡として仏法的に自己をしてどのように位置付けるのか。何を成していくのかが大切なのだよ」というメッセージを受け取る思いとなるのです。
御義口伝
日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一同に皆共至宝処なり、共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し
我本誓願を立てて 一切の衆をして
我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき
(妙法蓮華経 方便品第二)
常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って
応に度すべき所に随って 為に種種の法を説く
毎に自ら是の念を作す 何を以ってか衆生をして
無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめんと
(妙法蓮華経 如来寿量品第十六)
「皆が無上道に入り仏身を成就するように」「皆が幸せに」と、母が赤子を慈しみ乳を与えるように妙法流布に励み、慈悲を通わせた日蓮大聖人。
妙法の信仰の世界は広大なるもので、そこから漏れる人は一人もいないはず。ましてや、断絶させる、塞いでしまうなどはあってはならないこと。法華経と御書にあるように、「一切の衆・衆生・日本国の一切衆生」 を包みゆく慈しみの教えであると拝します。
いくら教学的分野を鮮明にしても、信仰がなければ学のための学次元です。
学びを深める毎に、『師の思い、心に連なろう』と、新たな思いで出発していきたいですね。
林 信男