私論「折伏について」(9)
投稿者:鬼滅の言
如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり
新池御書 御書p.1,443
「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」
観心本尊抄 御書p.246
如我等無異とは方便品の文で 「我が如く等しくして異なること無からしめん」と読みます。
釈尊が仏である自身と等しい境地に人々を導くことを意味します。
今回はこの如我等無異の観点から折伏について考えてみます。
私の経験で申し訳ありませんが、述べさせていただきます。
男子部時代のことです。仕事のことで悩んでいた私は唱題の中で「なぜ、このような事で悩まなければならないのか、御本尊は無慈悲ではないか!」と思ったことがあります。
その瞬間、「如我等無異」との言葉が浮かんだのです。
仏は自身と同じような境涯にしてあげたい、そう願っている。とするならば、仏から慈悲を受けるのであれば、如我等無異とはなりません。
無慈悲と思えるような環境にいるからこそ、慈悲が出るのではないか!
それが、御本尊の答えでした。
また、別の時も「なぜ、このような事で悩まなければならないのか」と思って唱題していたのですが、その時「人のために祈っていないからである」と御本尊が教えてくれました。
1日は24時間です。人のために悩み、苦しむ時間の多い人は、自分のことで悩む時間が少ないのです。仏法は道理です。
人のことで悩まない人は24時間、自分のことで悩むということです。
学生部の時代、書記長(全国幹部)が「折伏は宿命転嫁である」と冗談で話していましたが、今にして思えば、折伏とは自身が悩む時間を人の悩みに変える転嫁であると言えるかもしれないと思っています。
<私たちの活動と生命の関係を考えてみます>
新聞推進や支援活動は勇気
唱題は歓喜
会合参加は元気
財務は真心
如我等無異「我が如く等しくして異なること無からしめん」
折伏行の中にしか慈悲は涌現しないのです。
私はそう思います
次回は折伏の成果について考えたいと思います。