日蓮大聖人が挑んだ鎌倉の宗教世界~定豪の事跡を中心に

『汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ』(立正安国論)と時の権力者を諫め、宗教的覚醒を促した日蓮大聖人。

今日、御書を学ぶ私達からすれば至極当然の言葉ではありますが、大聖人の生きた鎌倉時代、このようなことを口にして筆にするのがいかに困難であったか。想像を絶する精神世界の壁の高さと厚さがどれほどのものであったのか。鎌倉幕府と顕密仏教の関わりをほんの少し確認しただけでも、大聖人が絶望の彼方に希望を創出して遠大なる理想を現実化せんとしていた「その志の大きさ」を感ぜずにはいられません。

「諌暁八幡抄」(弘安3年[1280]12月)には、「其の上又当世の天台座主は一向真言座主也。又当世の八幡の別当は、或は園城寺の長吏、或は東寺の末流。此れ等は遠くは釈迦・多宝・十方諸仏の大怨敵、近くは伝教大師の讐敵也」とありますが、幕府権力者の崇敬が厚かった鶴岡八幡宮寺の別当職を確認してみましょう。

「鶴岡八幡宮寺社務職次第」(群書類従 第四輯 補任部 P477)には、鶴岡八幡宮寺の別当職について初代から17代までは「寺門派=三井寺=園城寺」(天台密教・台密)と「東寺」(東寺の密教・東密)の高僧であったことが記されています。これにより、密教系宗派と幕府の親密な関係、密教僧の鎌倉への定着のほどがうかがわれます。

初代・円暁(三井寺)

二代・尊暁(三井寺)

三代・定暁(三井寺)

四代・公暁(三井寺)

五代・慶幸(三井寺)

六代・定豪(東寺)

七代・定雅(東寺)

八代・定親(東寺)

九代・隆弁(三井寺)

十代・頼助(東寺)

十一代・政助(東寺)

十二代・道瑜(三井寺)

十三代・道珍(三井寺)

十四代・房海(三井寺)

十五代・信忠(東寺)

十六代・顕弁(三井寺)

十七代・有助(東寺)

三井寺で受戒した公暁が実朝を暗殺したことにより、北条氏と三井寺系には距離感が生じたようで、承久2年(1220)1月21日、定豪が東寺系としては初めて鶴岡八幡宮寺の6代別当に補任されています。続いて7代・定雅、8代・定親、10代・頼助、11代・政助と東寺系の人物が鶴岡別当に補任されます。

承久3年(1221)5月に勃発した承久の乱では、幕府は5月20日、定豪に世上無為の祈祷を始めるよう指示し、26日には関東で初めての仁王百講(大仁王会)を行っています。この時の導師は安楽坊法橋重慶、読師は民部卿律師隆修が務め、鶴岡・勝長寿院・永福寺・大慈寺等の僧百人が参列。

「吾妻鏡」5月22日条に「武州京都に進発す。従軍十八騎なり。」とあるように、幕府の東海道軍はわずか18騎で鎌倉を発っていますが、道中で各地の武将が加わり10万を超える兵力となります。

6月14日、幕府軍は京方との激戦の末に宇治川を渡って京都に入り、東寺の戦いを最後に京方の軍勢は完全に敗北し、乱は終結。7月、倒幕を企てた後鳥羽上皇(治承4年・1180~延応元年・1239)は隠岐島へ流され、順徳上皇(建久8年・1197~仁冶3年・1242)は佐渡島へ、土御門上皇(建久7年・1196~寛喜3年・1231)は望んで土佐国へ配流となりました。

承久3年(1221)8月29日、定豪は鶴岡別当職を弟子の定雅に譲ります。続いて承久の乱での祈祷の賞により、幕府の推挙で熊野三山検校になり、新熊野検校、高野山伝法院座主も兼ねるようになります。定豪は鎌倉を離れることはなく、貞応2年(1223)8月20日、弥勒像を本尊とする鎌倉・南新御堂の供養の導師を務めます。貞応3年(1224)7月30日、北条義時の四十九日仏事の導師。嘉禄元年(1225)8月27日、北条政子の葬儀の導師。「吾妻鏡」同日条には「今日二品御葬家の御仏事。竹の御所の御沙汰なり。導師は弁僧正定豪、曼陀羅供庭儀例に加う。(以下略)」とあります。

同年12月、東寺三長者に補任され、安貞元年(1227)12月13日、4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね 建保6年・1218~康元元年・1256)の護持僧となります。「吾妻鏡」同日条には、「護持僧・陰陽師等結番せらる。隠岐入道・周防の前司・後藤左衛門の尉奉行たり。先ず護持僧、上旬・弁僧正、丹波僧都、宰相律師、中旬・大蔵卿法印、大進僧都、常陸律師、下旬・信濃法印、加賀律師、蓮月房律師。次いで陰陽師、一番・泰貞、二番・ 晴賢、三番・重宗、四番・晴職、五番・文元、六番・晴茂。」と記述されています。

安貞2年(1228)8月7日、東大寺別当に補任。貞永元年(1232)5月18日、北条泰時(寿永2年・1183~仁冶3年・1242)の子・時氏(建仁3年・1203~寛喜2年・1230)の三回忌を迎えて墳墓堂に阿弥陀三尊像が新造され、供養の導師を務めます。同日条に「今日武州故修理亮(時氏)の第三年忌辰を迎へ、彼の墳墓堂に於いて、新造阿弥陀三尊を供養被る。導師は弁僧正定豪と」とあります。

文暦2年(1235)、4代将軍・藤原頼経により鎌倉十二所に明王院・五大堂が建立され、定豪が別当となります。同年6月29日条には「寅卯の両時新造の御堂の安鎮を行わる。弁僧正(定豪)これを修す。~中略~同時に五大明王像(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉なり)を堂中に安置し奉る」と記述されています。この寺院の歴代も、東密僧によって相承されるところとなりました。嘉禎2年(1236)12月7日、鎌倉を発ち上洛、年末には東寺一長者となっています。

定豪の祈祷には、幕府から多大なる信頼が寄せられていました。

嘉禄元年(1225)、鎌倉に疫病が蔓延して死者が数千を越える事態となり、幕府要路は災いを払うため祈祷を行うこととし、5月1日、「弁僧正定豪、大蔵卿法印良信、駿河前司義村、隠岐入道行西、並びに陰陽権助国道」(吾妻鏡)らを集めて協議。北条政子は隠岐入道行西(二階堂行村 久寿2年・1155~嘉禎4年・1238)を以て、「般若心経」と「仏頂尊勝陀羅尼」をそれぞれ万巻書写供養することについて意見を求めます。これを受け定豪は「千口の僧を屈し、一千部の仁王経を講読(こうどく)被(され)る可き歟(か)」(同)と、千人の僧を集め仁王経を講読すべきことを提案。

また定豪と良信は、「嵯峨天皇の御宇、疫病発し、五畿七道夭亡之族甚だ多し。仍て宸筆を染め、心経を御書写令(せし)め給い、弘法大師を以て、供養を遂げ被(られ)ると。」(同)と、空海の時のこととされる先例を挙げて般若心経書写の功徳を説き、書写供養を行うことが決められます。5月22日、予定通り鶴岡八幡宮寺において、定豪を導師として千二百口の僧供養が行われ、同日条では「寅刻衆会。各、左右の廻廊並びに仮屋等に於て座に着く。先ず仁王経一巻之を転読す。次いで心経、尊勝陀羅尼等十返誦(とな)う。亦、心経、尊勝陀羅尼各、一千巻之を摺被(すられ)る。次いで彼の経、各、百巻金泥を以て書写令(せし)め畢。是者(これは)、諸国彼の一宮毎に、一巻宛てを奉納被(され)る可きと」と記録。当日、金泥で書写された経巻は、諸国の一宮ごとに一巻を奉納するというものでした。

定豪は40余年も関東にいたことになりますが、各種の法会、祈祷で導師を務めた彼のもと、東密は根を張り展開することになりました。定豪に伝法灌頂を受けた主な弟子には、「貞遍、隆豪、正範、寛耀、定季、定親(鶴岡8代別当)、定清、定雅(鶴岡7代別当)、道快、定舜、有嘉、行仁、顕宴、定証、教雅、良瑜」らがいます。

以上、鶴岡八幡宮寺の六代別当・定豪(東寺)を中心に見ただけでも、東密がいかに鎌倉に根を張っていったかが理解されると思いますが、大聖人の同時代ではまず北条時頼が熱心な禅の信奉者でした。

時頼は宝治2年(1248)、禅僧・道元を鎌倉に招き、建長5年(1253)11月には南宋より渡来の禅僧・蘭渓道隆(大覚禅師)を招き建長寺を創建。続いて同じ南宋の渡来僧・兀庵普寧(ごったんふねい)を招じて建長寺2世として師事、参禅してその教えを受けるようになります。

「立正安国論」進呈時、かつ伊豆配流の時の第6代執権・北条長時は、建長3年(1251)に浄光明寺を創建して開山に真阿(真聖国師)を迎え、浄土、真言、華厳、律の四習兼学の寺としたことが伝えられています。長時は文永元年(1264)に死去、浄光明寺に葬られています。

長時の父親・北条重時(第2代執権・北条義時の三男)は連署として北条時頼を補佐し、正元元年(1259)、極楽寺を藤沢より鎌倉に移して隠居、極楽寺殿と呼ばれています。弘長元年(1261)、同寺で没します。

建治3年(1277)11月20日の「兵衛志殿御返事」には、「極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし、念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給いしかば、我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う。ただいまはへちご(越後)の守殿一人計りなり」とあり、念仏者に近い人物だったことが窺われます。重時の死後、浄土宗であった極楽寺は真言律宗に改められ、良観に寄進されています。

「安国論御勘由来」を法鑑房に報じた文永5年(1268)は、第7代執権・北条政村(第2代執権・北条義時の五男)より第8代執権・北条時宗に代替わりした年でもあります。時宗は父・時頼と親交のあった蘭渓道隆、兀庵普寧そして同じ禅僧の大休正念にも学んだと伝えられ、弘安5年(1282)には、元寇戦没者の追悼の為に宋の禅僧・無学祖元を招いて円覚寺を創建しています。

このように、かいつまんで概観しただけでも国家機構の一部と化した感がある鎌倉仏教界ですが、そのようなところに「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(富木入道殿御返事)と遠大なる理想を掲げて諸宗教に真正面から切り込み、「幸なるかな楽しいかな、穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なる而已」(聖人知三世事)と難をも安楽とし、「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御義口伝)鎌倉の衆生どころか一切衆生を包みこんで、「されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」(撰時抄)自己だけではなく弟子檀越にも不惜身命を説く一人の人物が登場したのです。

しかも感情的に破折するのではなく、「此の大悪法又かまくらに下つて御一門をすかし日本国をほろぼさんとするなり。此の事最大事なりしかば弟子等にもかたらず、只いつはりをろかにて念仏と禅等計りをそしりてきかせしなり、今は又用いられぬ事なれば身命もおしまず弟子どもにも申すなり」(高橋入道殿御返事)と、法然浄土教、禅、そして密教と順を追って破折していく冷静さ、緻密さです。

「鎌倉の仏教」を少し調べただけでも、日蓮大聖人がいかに「大いなることを成そうとした」かが理解されますし、大聖人の御書を学ぶ意気込みで同時代の仏教を知るほどに、別の角度から「日蓮という人物の大きさ」が見えてくるのではないでしょうか。

「人間の世界で人間に越えられない壁はない」

人間日蓮の生き方が私達に語りかけているように思います。

                          林 信男