日蓮大聖人が曼荼羅本尊を顕した背景~終わりなき迫害の中で
富木殿御返事 文永9年4月10日
日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎(は)ねらるる時は殊に喜悦有るべし。大賊に値うて大毒を宝珠に易(か)ゆと思う可きか。
鵞目(がもく)員数(いんずう)の如く給(た)び候い畢(おわ)んぬ御志申し送り難く候。法門の事・先度(せんど)四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ其の書能(よ)く能く御覧有る可し。粗(ほぼ)経文を勘え見るに日蓮法華経の行者為る事疑無きか。但し今に天の加護を蒙らざるは、一には諸天善神此の悪国を去る故か。二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか。三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか等、一一の証文道理追て進(しん)せしむ可く候。
但生涯本より思い切て候、今に飜返(ひるがえ)ること無く其の上又遺恨無し、諸の悪人は又善知識なり。摂受折伏の二義仏説に依る。敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期す。
意訳
日蓮の臨終が少しも疑いなく、頭を刎ねられる時は、とりわけ喜ぶべきです。大盗賊にあって、大毒を宝珠と交換するようなものと思うべきです。
銭は数のとおりに受け取りました。御志はお伝え申し上げたい。
法門の事(開目抄)は先頃、四条三郎左衛門尉殿に書いて持たせました。その書をじっくりと御覧なさい。おおよそ経文を考え見ると、日蓮が法華経の行者であることは間違いありません。ただし、今もって諸天善神の加護を蒙らないのは、一つには諸天善神がこの悪国を去ってしまったからでしょうか。二つには諸天善神が法味を味わわないために威光勢力がないからでしょうか。三には大悪鬼が三類の強敵の心中に入って梵天や帝釈も力が及ばないからでしょうか。
それら一つ一つの文証や道理は、追って書いてさしあげましょう。
ただ、私の生涯は、もとより覚悟の上です。何が起きようとも翻ることなく、その上、遺恨もありません。諸々の悪人はまた善知識でもあります。摂受を取るか、折伏をすべきかの二義は、ひとえに仏説によります。決して自分勝手に歪めるものではありません。万事は、霊山浄土を期すことです。
『但生涯本より思い切て候、今に飜返ること無く其の上又遺恨無し、諸の悪人は又善知識なり』の一節は、『覚悟の信心』とか『腹を決めよう』という意味でよく聞かれたことがあると思います。
ところが実際の意味は単なる覚悟の次元ではなく、日蓮大聖人は本当に殺されかかっていたということが、本書冒頭の『日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎ねらるる時は殊に喜悦有るべし』から理解できます。
大聖人は文永8年の法難=竜口を経て佐渡に配流となりました。しかし事態はこれで終わらず、『日蓮を斬ってはどうか』という強硬論が各所であり、大聖人の耳にも入ったのでしょう。故に冒頭の悲壮なまでの心情と、法華経身読の喜び溢れる書き出しになったと推察します。
次に、『あれだけ、法華経信仰による幸福世界を説いておられた聖人が、何故に死罪、流罪になるのか?功徳など無いではないか』と、多くの門下が抱いた不信に応えます。
法華経を拝すれば、日蓮が法華経の行者であることは疑いない。しかし、現在、諸天の加護を蒙らないのは、
一、諸天善神が此の悪国を去ってしまった故か。
二、日本は不信者ばかりの国で、諸天善神は妙法の法味を味わえず威光勢力無き故か。
三、大悪鬼が三類の心中に入り、梵天帝釈も力及ばざる故か等々。
要するに、
竜の口の死地を脱した⇒佐渡に流された⇒命をつないでなんとか無事であった⇒その後は弟子に守られながら妙法流布の指揮をとられた
というのどかな事態ではなかったということです。
大聖人をどうするかは幕府の掌(たなごころ)にあり、生かすも殺すも幕府次第で、佐渡にいる間は『いつ何をされるか分からない』という、絶えざる緊張状態下にありました。また、身延に入山して以降も、幕府内では『流罪にしよう』との動きがありました。
いわば文永8年以降は『終わりなき迫害』で、いつ命を落としてもおかしくない状態。
そのような環境下で大聖人はどうしたのか?
佐渡では、曼荼羅本尊を次々に顕し、多くの門下に授与。今日でも数多く現存し、今でも見つかることから相当数の曼荼羅を顕したと推測され、『佐渡百幅本尊』と呼ばれています。
特に「文永十年七月八日 」に顕した通称・佐渡始顕本尊の讃文では、
右上より
「此経則為閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」
と曼荼羅本尊は一閻浮提の人々の病をなおし、不老不死=三世の生命を感得させる良薬である。
右下より
「文永八年太才辛未九月十二日蒙御勘 遠流佐渡国同十年太才癸酉 七月八日図之 此法華経大曼荼羅 仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之 如来現在 猶多怨嫉況滅度後 法華経弘通之故 有留難事 仏語不虚也」
と「仏滅後二千二百二十余年 一閻浮提之内未曾有」の曼荼羅を、法華経身読、仏語を証明した日蓮が初めて顕したことを書き留めています。
このような背景を知ると、阿仏房御書の曼荼羅本尊を顕すにあたっての『あまりにありがたく』という表現には、大聖人の万感の思いが込められていた、それはこれ以上のものはない無上の喜びであったのか、と思います。
また『経王殿御返事 』の、『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ 』からは、いつ現世に別れを告げるかもしれない自身であれば、『我が亡き後の我=久遠から未来への教主としての自己』をここに留めようとの思いを、一つ一つの曼荼羅に顕していったのではないかと拝察するのです。南無妙法蓮華経の題目の真下に、『日蓮』と大書した意味の一つがここにあるのではないでしょうか。
林 信男