御書に見える「謗法者の首を切る」とはどういうことか

文永8年(1271)9月12日、日蓮大聖人は平左衛門尉に向かって訴えます。

建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべし

撰時抄

続いて文永11年(1274)4月8日、佐渡から鎌倉に帰った大聖人は同じく平左衛門尉に語ります。

日本国の念仏者と禅と律僧等の頸を切ってゆいのはまにかくべし

高橋入道殿御返事

一見、「なんと恐ろしい。日蓮は対立する宗教者の寺を焼き、首を刎ねることを言ったのか」と受け止める向きもありますが、これらは直ちに「行為そのもの」を意味するのではなく、為政者クラスが日蓮の主張を受け入れないことを承知のうえで、為政者に邪を捨て正に帰することを促すところに本意があった。極刑云々という物理的なものではなく、為政者に速やかなる宗教的覚醒を促す謗法禁断の比喩的表現だったと思うのです。

その根拠の一つになるのが、建治元年(1275)7月12日の「高橋入道殿御返事(加島書)」で、そこには「(日蓮に)あだをなす念仏者・禅宗・真言師等をも並びに国主等もたすけんがためにこそ申せ」とあります。

該当部分を意訳してみましょう。

ただし、去年、鎌倉からこの身延山へ逃げ入った時、通り道は入道邸の近くだったので立ち寄って皆さんに色々と申すべきでしたが、それもできずに通り過ぎてしまいました。また、先に頂いたお手紙の返事を認めなかったのは、特別、これといったわけはありません。なに事につけ、皆様を疎ましく思うことがあるでしょうか。日蓮に怨をなす念仏者、禅宗、真言師等や、国主をも助けたいがために、法華経を強いて説き聞かせているのであって、彼等が日蓮に怨をなすことは実に不憫なことです。ましてや、一日でも日蓮に味方として心を寄せてくれる人々を、どうして疎かにすることがあるでしょうか。日蓮の信者であることについて、世間を憚り恐ろしく思い、妻子ある人々が日蓮から遠ざかっていくことを、ことに喜んでいるのが私の思いなのです。日蓮についてきても、私は助けてやることもできない上に、僅かの領地を主君に召し取られるならば、仏法の正邪等、細かいことが分からない妻子や家来等は、いかほど嘆くであろうかと心苦しく思うのです。

日蓮、その人の優しさが伝わってくるような文面ですが、「法華経の敵(かたき)となってしまっている念仏者、禅宗、真言師、国主をも助けたい」というのが本意だったのです。

平左衛門尉との面談となれば、大聖人も身命を賭してのものであった故に、正か邪か二つに一つ、為政者が今目を覚まさなければこの国は危うい、との強き意思と危機感が冒頭の表現となったものでしょう。ですが、その心は「一切衆生救済という慈悲=みんなを助けたい」というところにあったわけです。

ほかにも、大聖人の身延入山は逃亡ではないのですが、「身延山へ逃げ入った」と書くところは「世間一般の認識を用いた」ということ。また、我が檀越を守りたくとも容易には守り切れない。むしろ、離れてもらったほうがその方々、一族のためと喜んでいる、と書くところに、人間日蓮の苦悩、心配り、思いやりというものが読み取れるのではないでしょうか。

                         林 信男