佐渡百幅本尊をめぐって

なんらかの理由で、「遠からず、私は命に関わる事態に直面するかもしれない」「それは絶対というほど避けられない」という事態になった時、人は何をするのでしょうか?

「興風17号」での、山上弘道氏の論考「日蓮大聖人曼荼羅本尊の相貌変化と法義的意義について」の文中、興味深い記述があります。(p330)

佐渡百幅本尊とは、料紙一枚を縦に使ったいわゆる一紙本尊で、相貌は首題とその左右に釈迦・多宝の二仏、左右端に不動・愛染の種子、そして下方に署名花押が左右に分かれて記されるという素朴な定型を有する。その定型が「御真蹟御本尊集」ではNO3,3-2、3-3、25、4、5、6の計七幅収録されている。その後の私達の調査でも、佐渡世尊寺に同型の本尊が確認されており、中には模写や偽筆もあるであろうが、今後、複数の発見が予想される。

それというのも、これら一蓮の定型を持った本尊は「佐渡百幅本尊」と通称されるように、他の本尊とは異なる。何らかの目的を持って、佐渡流罪中のある時期から図顕され始め、ある程度の期間の中で、必ずしも百幅と限定されないのではあろうが相当数図顕されている形跡がある故である。それは佐渡以外にも伝播しているので、新発見の可能性は極めて高いのである。

以上、引用。

佐渡百幅本尊とは、普段は聞きなれない言葉です。

文永8年(1271)11月下旬、佐渡へ着いた日蓮大聖人は翌月、「富木常忍」に書状を発します。

富木入道殿御返事 文永8年11月23日

此比は十一月の下旬なれば、相州鎌倉に候し時の思には四節の転変は万国・皆同じかるべしと存候し処に、此北国佐渡の国に下著候て後二月は、寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず、何に況や仏法の邪正師の善悪は思もよらざるをや。

意訳

いまは11月の下旬ですが、相模の国・鎌倉にいた時は、四季の変化は日本各地どこも同じだと思っていました。ところが、佐渡へ着いてからの二ヶ月間、寒風はしきりに吹いて霜や雪が降らない時はありますが、太陽の光を見ることはありません。八寒地獄を現在の、この身に感じています。この地の人々の心は荒く、一切衆生が尊敬すべき主師親を知りません。ましてや、仏法の邪正、法を説く師の善悪などは考えもしないのです。

このような厳しい気候風土、仏法への理解が薄い衆生に囲まれての塚原での生活です。

種種御振舞御書

同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし。上はいたまあはず、四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし。かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす。

普通の人、いや、どれだけ不惜身命で布教に励んだ仏教僧でも、「もはやこれまで」と思うことでしょう。悪い時には悪いことが重なるもので、翌年になっても鎌倉幕府内には「日蓮を処刑せよ」との不穏な動きがあったようです。富木氏にあてた書簡では「臨終只今」、その悲壮なまでの決意が綴られています。

富木殿御返事 文永9年(1272)4月10日

日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎ねらるる時は殊に喜悦有るべし。大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか。

権力を掌にする幕府から「いつ処断されるかもしれない」という状態の中で、大聖人は門下への激励の書を、法門を記した重書を、次々と書きに書きました。

真蹟、写本を含めて列挙すれば、以下のようになります。

富木入道殿御返事

法華浄土問答抄

生死一大事血脈抄

八宗違目抄

草木成仏口決

開目抄

女人某御返事

佐渡御書

富木殿御返事

最蓮房御返事

得受職人功徳法門

同生同名御書

四条金吾殿御返事

真言諸宗違目

日妙聖人御書

安国論送状

弁殿御消息

真言見聞

四条金吾殿御返事

祈祷抄

経王御前御書

祈祷抄送状

法華宗内証仏法血脈

妙法曼陀羅供養事

観心本尊抄

観心本尊抄送状

妙一尼御返事

正当此時御書

諸法実相抄

義浄房御書

如説修行抄

顕仏未来記

富木殿御返事

波木井三郎殿御返事

経王殿御返事

弁殿尼御前御書

大果報御書

土木殿御返事

乙御前母御書

直垂御書

当体義抄

当体義抄送状

小乗大乗分別抄

呵責謗法滅罪抄

木絵二像開眼之事

其中衆生御書

法華行者逢難事

授職灌頂口伝抄

弥源太殿御返事

「いつ終わるかもしれない我が命。残すべきものを残す」

並べて書名を拝見するだけでも、大聖人の烈々たる気迫に圧倒される思いとなります。

「顕仏未来記」(文永10年〔1273〕5月11日)では、「広宣流布すべき法体」を明言されています。

仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵よりも多く、正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少きなり。此の時に当つて諸天善神其の国を捨離し、但邪天邪鬼等有つて王臣比丘比丘尼等の身心に入住し、法華経の行者を罵詈毀辱せしむべき時なり。爾りと雖も仏の滅後に於て四味三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん。此の人は守護の力を得て、本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか。

大聖人は「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめん」と、本尊と妙法を一閻浮提に広宣流布すると記すのです。

厳しい環境と周囲の状況。このような中にあって、末法の衆生が帰命礼拝すべき本尊・曼荼羅を「より一幅でも多く」との思いで顕したのでしょう。「佐渡百幅本尊」は単なる伝承にとどまらず、「故あるかな」とも考えられるのです。

また、百幅とまではいかなくとも、「人の重書」「法の重書」を著し、広宣流布すべき法体までをも明示しているのですから、相当数の曼荼羅を図顕されたであろうことは状況証拠だけでもいえるかと思います。

以上、見てきたように日蓮大聖人が自らの身命を賭しての「今日、私達が日常的に拝読する御書」であり、「朝夕、拝する御本尊」なのだと思います。

「内面の豊かなる実りを分かち与えるところに日蓮仏法の慈悲の道がある」

日蓮大聖人の事蹟を知るほどに、その思いは強まります。

                          林 信男