「今諌暁を止むべし」に込められた思い

『一つの手法、路線に固執するのではなく、新たなる展開を期して、自らにより自らの内面を変革し、それを行動で顕す』

『批判だけではない。批判対象以上に善きものを創造するところに日蓮がごとくの道がある』

ということを、佐渡より鎌倉へ帰った後の日蓮大聖人の行動に学びます。

佐渡流罪を赦免となった日蓮大聖人は、鎌倉で平左衛門尉と対面します。

ここでは真言破折を中心に蒙古襲来の必定を明言するのですが、直後の書でしょうか、系年・文永11年(1274)4月とされる「未驚天聴御書」(真蹟断簡)があります。

之を申すと雖も未だ天聴を驚かさゞるか。事三箇度に及ぶ。今諌暁を止むべし。後悔を致す勿れ。

僅か真蹟二行だけですが、当時の大聖人の心境が端的に綴られているものだと思います。

武家政権・鎌倉幕府へ『立正安国論』の進呈、続く法華勧奨、妙法弘通は成した。だが、未だに朝廷への『立正安国論』の呈上、諌暁はしていないと言われるだろうが、既に事は三度に及んでいるのである。今はもはや、諌暁はやめるべき時である。悔いるところは一切ない。

短文ですが、立正安国論による諌暁以来の約14年間、間断なく続けた法華勧奨と、それに伴い度重なった法難と、それらをも過去のこととして高みから俯瞰しているような、末法の教主として新境地に達した大聖人の内面世界を表した記述といえるのではないでしょうか。また、妙法弘通・立正安国・一閻浮提広宣流布への展開として、次なる段階に進みゆくことを予感させるものがあります。

この頃には、もはや幕府に対して何も期することはなかったのでしょう。この後、日蓮大聖人は「又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり」(報恩抄)として鎌倉を発ち、身延へと向かうのです。

この身延在山九ヶ年での、各地の弟子檀越への書状、教導と御本尊の図顕が今日、現存する御書と曼荼羅の大半以上となるのですから、そこに『批判した以上に善きものを創造し、その恵みを分かち与えた教主(一閻浮提第一の聖人)の姿』があるのではないでしょうか。

                        林 信男