身延山の板本尊をめぐって

現在、新潟県立歴史博物館で行われている「日蓮聖人と法華文化」展では、色々と気になる展示があるのですが、その一つが身延山久遠寺所蔵の板本尊です。縦161.2㎝、横77.1センチの大きな板本尊で、室町時代前期・14世紀頃の造立と解説されています。

中山法華経寺三世・日祐(1298~1374)の「一期所修善根記録」(日蓮宗宗学全書1-446)に、「観応二年~身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊  金箔 造営修造結縁」とあり、観応二年(1351)頃、身延山久遠寺の日蓮大聖人の塔頭(たっちゅう)、即ち廟所に、金箔で刻まれた板本尊が安置されていたことがうかがわれます。

展示されている身延山所蔵の板本尊の相貌は日蓮真筆を模刻したものと思われますが、図録の解説では、身延山板本尊は「一期所修善根記録」の塔頭板本尊に『比定され得ると推定され』るとしています。

「一期所修善根記録」の塔頭板本尊=展示されている身延山所蔵の板本尊であれば、日蓮法華教団初期の信仰の態様を示す、一つの貴重な史料ともいえるでしょう。

同信の一門がかたち作られるようになると、教理面の構築とともに、寺院経営を安定化させ、僧侶の生活基盤を確立しなければならず、それは一門の財政基盤の確立と同義でもあります。

・他に優越する教義で檀越の信仰を強固なものにする。

・寺院の縁起を作り、本尊を重厚なもの(板本尊)にして由緒正しきものとし、日蓮真蹟を集め宝物とする。

・壮麗な建築・仏具で荘厳して寺院参詣の功徳を説き、自派の財政面を安定的に継続するために信仰面で檀越を囲い込む。

・即ち檀越が他の教派に無用な布施をしないようにする教理的裏付けが必要となる。

それには、師日蓮の他宗批判と「神天上」に勝るものはなかったといえるのではないでしょうか。師匠利用という次元に陥っていますが。

妥協なき宗教的共同体は財政基盤が安定する反面、布教の展開、教えの広がりは一定の範囲に留まる傾向性を持っていたと推測されますが、このような事情は一人日向・身延山のみならず、他の門流にあっても同様のことだったと思われます。

いずれにしても、1300~1400年代は各地で板本尊が造立されています。

1300年
12月 日向は板本尊を造立 日蓮宗宗学全書22-56
「一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すが、下添え書きは、第三祖向師(日向)の筆なり。下添え書きに云く、正安二年庚子十二月 日、右、日蓮幽霊・成仏得道・乃至法界衆生平等利盛の為に敬ってこれを造立す」

1340年
日尊は京都・上行院の日目本尊を模刻しました。

1354年
保田妙本寺では日賢が板本尊を造立。


1370年
中山(法華経寺)日祐は板本尊を造立しました。

1388年
大石寺6世日時は、大石寺御影堂に御影像を造立しました。

1412年
栃木・平井の信行寺に通称・紫宸殿御本尊を模刻した板本尊が造立されました。

1419年
保田妙本寺では板本尊を彫刻しました。

1420年
福島県いわき黒須野・妙法寺にて板本尊(同じく紫宸殿御本尊の模刻)造立。

師説を純粋に信奉して布教、やがて一門が作られれば伝道拠点が必要となります。当初は有力檀越の持仏堂、粗末な堂宇から始まったものが、寺院に発展すればそこには仏法というよりも世間的な認識も加わり、僧俗ともに寺院としての荘厳を欲するようになるのは、特に鎌倉・室町時代では、人間心理として自然なことでもあったでしょう。そこに他に勝るとする教義と立派な板本尊が、拍車をかけたのではないでしょうか。出家者を養い寺院を荘厳するためには、信奉者となった檀越に転向されることがあってはいけません。

ここにおいて、出発当初の誓願とはかけ離れた既成化の道をたどることになるのですが、概していえば、この繰り返しが日本仏教の歩みの一側面といえるのではないかと思います。

そして時は流れて・・・・いま、目覚めたる人々により、新たなる日蓮大聖人の仏法研鑽の歩みが始まっています。

                         林 信男