「天変地夭盛なるべし」の背景にあるもの

唱法華題目抄

法華経勧持品に云く「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし」

上野殿御返事

抑日蓮、種種の大難の中には竜口の頚の座と東条の難にはすぎず、其の故は諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり

悪口罵詈され、刀杖まで加えられた日蓮大聖人。

その妙法弘通の生涯を知るほどに思います。

凡人の海の中での偉大なる人物の至誠、真実というものは、余りに突出しすぎており、同時代人の視界の範囲を超えてしまっていて認識すらできない。しかし、後世に至って振り返ったときに、ようやくにして視界に入ることとなり、凡人は自らと知れる限りの歴史上の人物と「その偉大なる人物」を比較相対し、「その至誠、真実」をようやくにして知ることとなる。そして自らを恥じ、その「言葉・教えのもたらす恵み」ということも理解できるようになる。

これを繰り返してきたのが「人間の歴史」であったか、とも思います。

さらに一つ。

「同時代に同時進行で、その人物の真実を知れる人こそ幸いである」ということ。そして「小さな己の利権、我欲に凝り固まって生きている人間は、大人材、本物、偉大なる人物こそが悪人に見えてしまう」ということも学ぶのです。やがて、後世の評価は「大逆転」することも。

それにしても、昨今の「天変地夭盛なるべし」のその背景を、日蓮大聖人は明確に語り尽くしています。

撰時抄

文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に入る大僧等国中に充満せん、其時に智人一人出現せん、彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣万民等を語て悪口・罵詈・杖木・瓦礫・流罪・死罪に行はん時、釈迦多宝十方の諸仏地涌の大菩薩らに仰せつけ、大菩薩は梵帝日月四天等に申しくだされ其の時天変地夭盛なるべし

悪鬼の身に入る大僧等が国中に充満し、智人一人、それは現代では考え語る人々といえるでしょうか。悪鬼の入る大僧が権力者から庶民に至るまで「考え語る人々」の悪口を浸透させ、皆で罵り、ルールや国の法によって追放、社会的生命を抹殺せんとする時、仏菩薩は怒り、諸天善神は動いて天変地夭は盛んとなってしまう。

大風、水害、干ばつ、大地震等を実際に経験し、人間の大量死という凄惨な光景を眼前とすればこそ、経典を開き理解を深め、それまで以上に語り抜いた日蓮大聖人。

それは現実世界に起きていること、世の実相が「語る」ことを聞き取り、自分の言葉に置き換えて世の人々に伝える作業でもあったように思いますが、「日蓮がごとく」の一門として、そのような日蓮大聖人のこころに連なっていきたいと思うのです。

                          林 信男