生身の虚空蔵菩薩をめぐって

日蓮大聖人の御書を読んでいると、そのまま読めば真意を見誤ってしまう、読み解く必要があるという箇所が少なからずあります。

例えば「清澄寺大衆中」の次の記述です。

生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思(おぼ)し食(め)しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候ひし故に、一切経を見候ひしかば、八宗並びに一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。

少年日蓮は、生身の虚空蔵菩薩より大智慧を賜ることがありました。「日本第一の智者となし給へ」との祈願に、虚空蔵菩薩は「不憫」と思ったのでしょう、明星の如くなる大宝珠を少年日蓮に授けてくださり、右の袖に受け取り、一切経を見たのです。そこで、八宗並びに一切経の勝劣をほぼ知るところとなりました。

知恵、知識、記憶力の増進をもたらす虚空蔵菩薩を念じて山に籠り、それらを成就する修行法が虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)ですが、清澄寺はその霊場として諸国に広く喧伝され、密教の行者が集っては虚空蔵菩薩求聞持法を修していました。

そのような宗教的環境で、少年日蓮も祈ったのでしょう。

虚空蔵菩薩が明星の如くなる大宝珠を少年の右の袖に授けたという不思議体験は、一途に祈る少年であればこそ、かつ密教独特の夢とも現とも幻想に近い状態であったのだとは思います(虚空蔵菩薩は師匠の道善房であるとの指摘もあります)。

ですが、その後直ちに一切経の勝劣を知るところになるというのは、常識からしても有り得ません。虚空蔵菩薩に祈って直ちに諸経の勝劣を知るほどのものがあるならば、ただ虚空蔵菩薩に祈ればいいだけの話になってしまいます。

「文の表に書かれていないところ」には、青年時代の比叡山を始めとする諸国での修学研鑽、諸経の勝劣と同時に法華経最第一の覚知、専修唱題による成仏、妙法流布というものが込められていると拝するのです。

また、この御書は虚空蔵菩薩を日常的に拝する清澄寺の大衆に読み聞かせることを念頭に書かれていますので、「故に」と記述して、読み手の機根に合わせたといえるでしょう。

このように「そのまま読んでいては真意を見誤る」ということが、報恩抄の「本門の教主釈尊」や観心本尊抄の「仏像」についてもいえると思うのです。

それらが曼荼羅本尊であることは、以下にまとめてあります。

報恩抄の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」をめぐって

                          林 信男