私論「折伏について」(5)

投書者:鬼滅の言

されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し。

如説修行抄 御書p.504

末法・今時、法華経の折伏の修行を、いったい誰が経文の如く実践しているだろうか。誰人であってもよい、諸経は無得道、堕地獄の因であり、ただ法華経だけが唯一、成仏の教えであると、声も惜しまず叫び抜いて、諸宗の人々とその法理を折伏するならば、三類の強敵は間違いなく競い起こってくるのである。(意訳)

前回は自行・化他にわたる題目を唱え実践した日蓮大聖人。「難を忍び慈悲のすぐれたる事」が天台・伝教よりも勝れている点について述べました。

今回は慈悲の観点から折伏を考える予定でしたが、先に難の観点から折伏を考えてみます。

日蓮大聖人は、誰人であったとしても、諸宗の人々とその教えを折伏するならば三類の強敵、つまり難が競い起こるとされ、それは普遍的な原理であると説かれています。

「難が起こるか、起こらないか、それで行者であるか信者であるか、分かるではないか」
牧口先生はこのような指導をされています。

折伏を行ずる人には難が起こる。行じない人に難は起こらない。それは普遍的な原理なのです。

諸の無智の人の悪口罵詈等し(俗衆増上慢)

未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん(道門増上慢)

人間を軽賤する者有らん(僭聖増上慢)

法華経・勧持品

三類の強敵の本質は”増上慢”の名前が示す通り慢心です。無智の生命・我慢の生命・人間を軽賤する生命。それが増上慢の本性です。

一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ

崇峻天皇御書 御書p.1,174

法華経では全ての人々に尊極なる仏の生命が具わっていると説いています。不軽品では人々を敬っていく実践を不軽菩薩の姿を通し描いています。

「人を敬いし」不軽菩薩の対極にあるのが「人間を軽賤する」者の存在です。両者は相容れない存在であるが故に、「人間を軽賤する」者の地位が高ければ高いほど、権力者であれば、あるほど、「人を敬いし」人の存在自体が不都合であるため、弾圧や迫害という形をとるのではないかと思います。

只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし

持妙法華問答抄 御書p.463

「慢のはたほこをたをし」戦っていく。それが折伏に実践であると思います。

先ずは自身の生命にある慢心を倒し、組織に巣くう慢心と戦い、さらには社会全般にはびこっている慢心を破折していく。それが折伏の実践であり、折伏の精神であると思います。

現代社会に於ける諸悪の根源は、慢心にあると私は思っています。

故に、私たちは増上慢と戦わなければならないのです。

人間主義は非人間主義と戦うのです。それが折伏です!

次回は仏と魔との観点から折伏を考えてみます。