「万年救護本尊」の讃文をめぐって

文永11年12月図顕、「万年救護本尊」の讃文を読みながら考えました。

大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之

◇大覚世尊=釈尊が入滅された後、二千二百二十余年が経歴(きょうりゃく)しますが、月漢日(インド・中国・日本)の三ヶ国に於いて未だなかった大本尊です。

⇒青年日蓮の学習環境における仏滅年代は、現代とは異なります。大聖人が活躍した時代は像法時代・末法のどれなのか?という議論はありますが、「天災地変の多発、疫病、旱魃、飢饉という事象から読み解けば、前代からの仏教学による時代区分だけでなく、現代の学問的理解も超えて、日蓮と同時代は末法の様相を呈していたといえる。故に13世紀鎌倉時代の一仏教僧が『時は末法なり』と理解したのは、至極妥当であった」という理解が成り立つと考えます。

月漢日(インド・中国・日本)の三ヶ国に於いて存在した本尊は、仏菩薩像、絵像、密教の図像、絵曼荼羅等です。そこに虚空会の儀式を顕し、信仰による救済の世界を創りあげた日蓮独創の曼荼羅の登場。讃文には「大本尊」とあり、大聖人の意は曼荼羅を本尊として、合掌礼拝、帰命の対象と定義したということです。

高尚な仏教理論を修得することなく、曼荼羅への専修唱題による成仏という、仏教を万人に開かれたものにした、当時の仏教世界における一大画期です。

紙の曼荼羅は信奉者の社会的階層を反映という理解もありますが、当本尊に「弘宣之」とあるように、大聖人は妙法の曼荼羅本尊を弘めることを志向しており、広宣流布へ向けての妙法弘通は本尊を弘めることと同義であると理解できます。

◇日蓮以前、月漢日(インド・中国・日本)の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知ることがありませんでした。

⇒月漢日の諸師が知る知らざるは、日蓮己心中の自在なる解釈、宗教的達観による表現と考えます。

◇我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈尊より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからです。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのです。

⇒当然のことながら釈尊の知る能(あた)わざる本尊といえども、大聖人は立教前後から諸難を乗り越える渦中において経典世界から釈尊に直参。胸中の対話と法難により釈尊を超える久遠の彼方からの自己の存在を悟達するに至るも、門下の理解を考慮して一応の義で、『釈尊が「仏智隠留之」として「上行菩薩」が出現して弘める』と文の表に顕したと考えます。

釈尊が「大本尊を隠し留め」としたのは大聖人の宗教的達観であり、実は「大本尊を隠し留め」たことにしたのも「大本尊を顕す」のも、それを主体として自在に成すのは日蓮その人であれば、久遠からの我れ、即ち末法の教主にして久遠の仏たる自己意識が、そこに読み解けるのではないでしょうか。

◇万年救護本尊に書かれた「後五百歳之時」にも注目です。

「後五百歳之時」との記述は大集経(だいじっきょう)によります。そこには「五(後)五百歳・闘諍言訟・白法隠没」とあり、「後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」との表現は白法隠没即ち末法の始めの五百年に釈尊の教えが隠没することを前提にして、それまで隠し留められていた大本尊が顕れるということであり、衆生救済の法体(ほったい)の交替の意、末法万年の衆生が拝する法体は日蓮図顕の大本尊であることを明示する意が込められていると考えます。

それは「撰時抄」における、「大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法・南無妙法蓮華経が日本の国、一閻浮提に広宣流布することは疑いないことであろう」との記述からも読み取れます。

「撰時抄」

今末法に入つて二百余歳大集経の於我法中闘諍言訟白法隠没の時にあたれり、仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり、

中略

是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか、彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし、生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども六道四生三世の事を記し給いけるは寸分もたがはざりけるにや、

意訳

今は末法に入って二百余年となる。大集経に説かれる「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたっている。仏の言葉が真実ならば、一閻浮提に闘諍が起こるべき時節である。

中略

これらを以て考えてみれば、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法・南無妙法蓮華経が日本の国、一閻浮提に広宣流布することは疑いないことであろう。

かの大集経は仏説の中では権大乗の経である。生死を離れて成仏する道ではなく、法華経の結縁なき者には未顕真実の経ではあるが、六道、四生や三世の事を記していることでは、寸分も違えることはない。

◇現代でいえば、大雨特別警報、緊急地震速報、空襲警報がいっぺんに鳴動して長時間、多くの日本人がその中にいるような異常ともいえる状態。あり得ない不安、恐怖の連日が精神的に限界の状態。そのような中で顕されたのが「文永十一年太才甲戌十二月 日」図顕の万年救護本尊であったと思います。

かねてから警告していた他国侵逼難が実際に起こり(文永の役)、戦場の悲惨、残酷も各地に伝わり日本中が騒然。次なる蒙古襲来時には国が亡びるは必定なのか。

ただならぬ緊張感、明日のわが身の存在を思わざるを得ないような、言い知れぬ不安感。

揺れ動く人心、九州警護に向かう武士団、異国調伏の加持祈祷の声が響き渡る社寺仏閣。

万人が動揺する日本国の中で、世を救わん、人を救わんとの烈々たる思いが込められたのが万年救護本尊であり、その思いが現れたのが讃文であると拝するのです。

この本尊が他とは異なる思いで顕されていたとはいえ、だからといってこの御本尊だけが特別、別格で法力が異なるとか、そのようなことはないので念のため。

ちなみに曼荼羅を「図顕」とされるのは、当本尊に「甲斐国波木井郷於 山中図之」と甲斐の国波木井郷の山中(身延山)で之(曼荼羅)を「図」すとあるように、日蓮大聖人自らが曼荼羅を認(したた)めることを「図」としていることが由来ともいえ、「図し顕す」で図顕となります。

                                      林 信男