私論「佐渡期の諸問題」

投稿者:鬼滅の言

なにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし、塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば集りていころせかしと云うものもありけり

種種御振舞御書 御書p.917

三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし

四条金吾殿御消息(竜口御書) 御書p.1,114

但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし

開目抄上 御書p.203

日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ

開目抄下 御書p.223

但仏界計り現じ難し

観心本尊抄 御書p.241

今回は日蓮大聖人がどのような問題に直面されていたのかを考えたいと思います。

(1)種種御振舞御書では「罪人として佐渡に流された人は最後まで活かされることはない、例え活かしておいても赦免されることはない。また罪人である以上、打ち殺したとしても何のお咎めもないのである」と、これは念仏者たちが集まって協議した内容です。

大聖人の生命はまさに危機的な状況にあったといえます。

(2)竜口御書では三光天子(日天子・月天子・明星天子)の中で月天子・明星天子が現れた(種種御振舞御書に詳述)。

後は日天子が出現し守護があると大聖人は記されています。しかし、その日天子は出現しませんでした。それが諸天善神への懐疑となっていきます。

(3)開目抄上では日天子が出現しなかったことについて、法華経の行者であるならば、諸天の加護があるはずである。

その加護がないということは大聖人ご自身、法華経の行者ではないのか?との疑問につながっていきます。

(4)開目抄下 -発迹顕本の御文です。竜口の法難で大聖人は頸をはねられた!と説かれています。

これは上行菩薩の使命は終わり、末法の御本仏として一切衆生を救済すべきお立場を宣言されたものですが、その大聖人を待ち受けている現実は佐渡流罪です。

一切衆生救済という誓願の大きさ、それに対するあまりにも厳し現実が横たわっていたといえるのではないでしょうか。

(5)「但仏界計り現じ難し」-観心本尊抄の一節です。

私の個人的な解釈ですが、佐渡期及び大聖人のご生涯にあって最も大きなテーマ・問題であったのが仏界の問題ではないかと思っています。

日本国でただお一人、否、世界でただお一人、仏界を覚知された大聖人、その現じ難い仏界を万人のものとすることができるのか?どうすれば可能なのか?その難問にも直面されていたと思います。

要約しますと、生命の危機、諸天善神への懐疑、法華経の行者をめぐる疑問、佐渡流罪というあまりにも厳しい現実、そして仏界の問題。

これら様々な難問に対し大聖人は佐渡期を通じ、その答えを出していかれたのだと思います。