【投書】摩訶・私感「仏教説話」

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投書者:鬼滅の言

いわゆる雪山童子と申せし人は・身を鬼にまかせて八字をならへり

白米一俵御書 御書p.1,596

身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ

開目抄下 御書p.232

雪山童子(釈迦)は仏法を学ぶため、鬼(帝釈天)の求めに応じ我が身を布施として与え、仏道を成就しました。

身子(舎利弗)は婆羅門(魔)の求めに応じ眼を布施として与えますが、婆羅門のあまりにひどい言動に菩薩の修行を退転してしまいます。

「雪山童子」と「乞眼の婆羅門」の説話について考えてみたいと思います。

この2つの説話は布施行を基調に似たような物語ですが、ある意味、対をなしているようにも思います。

①雪山童子は過去世の釈迦であり、身子は過去世の舎利弗である。
⇒師匠(仏)の物語と弟子の物語

②鬼は帝釈天の化身であり、バラモンは第六天の魔王の化身である。
⇒諸天善神の物語と第六天の魔王の物語

③鬼は雪山童子の修行を試すために現れるが、バラモンは身子の修行をやめさせるために現れる。
⇒修行を試す物語と修行をやめさせるための物語

④雪山童子は鬼に声をかけるが、身子はバラモンから声をかけられる。
⇒能動と受動の対比

⑤鬼は雪山童子に生命を要求するが、バラモンは身子に眼を要求する
⇒命の布施と眼の布施

⑥雪山童子は修行を貫き、身子は修行を退転してしまう
⇒不退転と退転

私は「雪山童子」の物語は難を象徴していると思います。難は命にも及びますが、それは信仰を試されているからです。それに対し「乞眼の婆羅門」の物語は魔の本性を象徴していると思います。

魔の働きは信仰を退転させるための働きです。故に命にまでは及ばないのですが結果的には修行を退転してしまう。それが魔の恐いところだと思います。

身子(舎利弗)にとって婆羅門(魔)は手強い相手であったといえるかも知れません。

般泥洹経に云く「阿羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず~」

開目抄下 御書p.225

私の人生に於いて魔がそのような形で現れるなど想像もしていませんでした。

そして雪山童子(釈迦)が婆羅門(魔)と対決したならば、どのような展開になるのだろうか?

最近そんなことを考えていました。