安房国清澄寺に関する一考 33

【 走湯山で学んだ大石寺・日目師 】

ここで意を留めておきたいのは、大石寺3世・日目師(文応元年・1260~元弘3年・正慶2年・1333)が少年時代に走湯山で学問に励んだと伝えられていることです。まずは富士門流に伝わる二つの文書を確認しましょう。

◇「三師御伝土代」 大石寺6世・日時(?~応永13年・1406)の著作(池田令道氏の教示)

日目上人御伝土代

右上人は八十九代当今の御宇文応元年かのへさる御誕生也、胎内に処する一十二ケ月上宮太子の如し。豆州仁田郡畠郷の人なり。族姓は藤氏、御堂関白道長廟音行、下野国小野寺十郎道房の孫、奥州新田太郎重房の嫡子五郎重綱が五男なり。母方は南条兵衛入道行増の孫子也。文永九年みづのへさる十三才にて走湯山円蔵坊に御登山。同十一年きのへいぬ日興上人に値ひ奉り法華を聴聞し即時に解て信力強盛十五才也。建治二年ひのへね年十一月二十四日、身延山に詣で大聖人に値ひ奉り常随給仕す、十七才也。

( 日蓮宗宗学全書2 興尊全集P257 )

◇「申状見聞」 保田妙本寺14世・日我(永正5年・1508~天正14年・1586)が天文14年(1545)4月7日に著す

日目上人御申状

中略

虎王殿と申し十三才にて伊豆国走湯山に御登山。又湯の山共伊豆の山共云ひ習はせり走湯山の事也。真言半学の天台宗也今偏に真言也。此の御児利根聡敏にして修学にうとからず手跡他に超え一山是にかたぶく。十七才迄御童躰也。爰に興上湯治の為に身延従り彼の山に移り玉ふ。小師は円蔵坊と申す彼の坊に興上立寄り玉ふ、御児を御覧有り文を送り玉ふ。其の時歌を遊ばし障子の中より投げ出し玉ふ。歌に云く、かよふらん方ぞゆかしきはま千鳥ふみすてゝ行く跡を見るにも、其の後酒宴乱舞様々の会釈也。其の時伊豆山の一番の学匠・所化名は三位阿闍梨、後には式部僧都と云ふ人に対(?)興上仰に曰く、無間地獄の主し式部の僧都とは御房の事歟云云。若人不信の文を以て遂に云ひ詰め玉ふ也。御児是れを聴聞有り自解発明(?)法花皈伏の心肝に銘す。之れに依て興上御皈路の跡を追ひ夜にまぎれ歩行にて追ひ付き玉ひ御契約有り。身延へ御同道あり、建治二年丙子十一月廿四日也。落髪の後宮内卿と申す新田の卿の公と申す是れ也。

(富士宗学要集4 P104)

文応元年(1260)、伊豆国仁田郡畠郷(にいたごおりはたけごう・現在の静岡県田方郡函南町畑毛)に生まれた日目師は文永9年(1272)9月、13歳の時に走湯山円蔵坊に入室。「此の御児利根聡敏にして修学にうとからず手跡他に超え一山是にかたぶく」(申状見聞)と伝えられるほどに学問に励んだようです。

文永11年(1274)、日目師15歳の時、日興上人(寛元4年・1246~元弘3年・正慶2年・1333)が走湯山を訪れ初めて対面し、「法華を聴聞し即時に解て」(日目上人御伝土代)と、日興上人の教示を即座に理解したといいます。この年の5月に日蓮大聖人は身延に入山しており、日興上人の各地への法華勧奨が活発に展開されていたことがうかがえます。

日我の「日目上人御申状」にも触れられていますが、大石寺9世・日有が語ったことを伝える「聞書捨遺」には、走湯山を訪れた日興上人が走湯山中500坊でも随一の学匠である式部僧都と問答した時のことを伝えています。

大石寺9世・日有(応永9年・1402~文明14年・1482)

「聞書捨遺」日有の語りを弟子がもとめたもの

一、仰ニ云ク、日目上人御発心ノ根源ハ日興上人伊豆ノ湯ニ御座シケル時節、走湯山ノ大衆達湯ニテ興師ト寄リ合ヒ申サレタル大衆ノ中ニ、是ハ当山ノ少人能書ニテ御座スカ遊シタル文ナリトテ、文ヲ一通日興上人エ見セ申サレケルヲ御覧シテカク遊ハシ給フ。

通フ覧カタソ床シキハマ千鳥 フミ捨テ行ク跡ヲ見ルニモ

此ノ御歌一首ニヨリ走湯山ノ円蔵坊ニ御対面候キ、其ノ後一献分ニテ又走湯山エ日興上人入御ノ時、山中五百坊一ノ学匠トテ式部僧都トヤラン相伴ニ渡ラセ給ヒケル御法門アリ、日興上人仰ニ云ク、式部ノ僧都無間ト説キ給フト仰ケル。式部僧都云ク、サ様ニ一向ニ有ルベカラズト諍論シ給フ、其ノ時日興ノ仰ニ云ク涅槃経ニ云ク若善比丘等ノ文ヲ引キ給テ、末世ノ善比丘トハ式部僧都ナリ、然レ共仏法迷惑ノ人ナリ無間疑ヒ無シトノ玉フ時ツマリ給フ、其ノ時ノ御上座ニ寅王丸トテ少人ニテ御座シケルカ、其時ノ御法門ヨリ御発心召サレテ十五歳ニテ日興上人ニ参リ給ヒテ御弟子ニ成リ給フ、十七歳ヨリ高祖日蓮聖人ニ参リ常随宮仕エ給フト云云。

( 日蓮正宗歴代法主全書1 P422 )

意訳

日目上人の御発心の根源というのは、日興上人が伊豆国の湯にお越しになった時のことにあります。伊豆の湯で日興上人と走湯山の大衆が参会した時、大衆の一人が『これは当山では、能筆な少年が書いた文です』といって、一通の文を日興上人に見せられました。日興上人はそれを御覧になり次のように詠まれました。

『通フ覧 カタソ床シキ ハマ千鳥 フミ捨テ行ク 跡ヲ見ルニモ』

この歌が縁となり、日興上人は走湯山の円蔵坊へ行かれ、初めて日目上人と御対面されたのです。その後、別の機会があって日興上人は走湯山を訪れ、山中500坊で随一の学匠といわれる式部僧都と一献酌み交わし、法門について問答されました。日興上人は式部の僧都に「経文によれば、あなたは無間地獄に堕ちることになると説かれています。」と仰せられました。式部僧都は「さようなことは一向にありません」といい、言葉の応酬となりました。その時、日興上人は涅槃経の「若善比丘」等の文を引用されて、「経文に説かれる末世の善比丘とは式部僧都殿のことです。仏法に迷惑するならば無間地獄に堕ちることは疑いありません」といわれた時、式部僧都は返答に窮してしまいました。

その時、その場には寅王丸という少年がいましたが、この法門談議を聞かれて発心され、15歳で日興上人の御弟子となられました。17歳の時には高祖日蓮聖人のもとへ参られて、常随給仕されたのです。

日興上人と式部僧都の問答の詳細は分かりませんが、日興上人が涅槃経の一文を以て式部僧都を諌めているのには注目すべきでしょう。日蓮大聖人が他宗を批判する際、自らの正当性を裏付ける文証として頻繁に引用するのが涅槃経の該文なのです。

例えば「災難対治抄」(正元2年[1260]2月)には、「問うて曰く、汝僧形を以て比丘の失を顕すは罪業に非ずや。答て曰く、涅槃経に云く、若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せざれば当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」とあります。涅槃経の文によれば、仏法を破壊する者を見て放置し、呵責・駈遣・挙処しなければ善比丘といえども仏法の中の怨となってしまうのであり、逆に破仏法者をよく駈遣・呵責・挙処するのならば、善比丘は仏の真の弟子であるということになります。

日興上人が涅槃経の一文を引用して、式部僧都を指弾したということはどういうことなのでしょうか。

「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し・・・」が引用されていると、他の教えを批判する日蓮一門を詰(なじ)った式部僧都に対して、日興上人が涅槃経の文を以て反論。諸宗批判の正当性を示したもの、と理解される向きがあるかもしれません。

ですが、この時の問答では、日興上人の方から式部僧都に「経文によれば、あなたは無間地獄に堕ちることになると説かれています」と指摘し、その根拠として涅槃経の「若し善比丘あって・・・」の文を引用していますので、日興上人から見た式部僧都は涅槃経に示されるように、他の誤れる教えを批判すべき立場にあったということになるでしょう。ところが今の式部僧都は誤れる教えと同居してよしとしているが故に、涅槃経を以て指弾されたというのがこの問答の展開のようです。日興上人と式部僧都の立ち位置は、それほど異ならないように見えます。

では、式部僧都の法脈は何かと推測すれば、日蓮法華信奉者であったとは考えられないので次に日蓮法華の信仰に近い立場、それは法華経を信じ学ぶ者、即ち天台・台密の僧であったと読み解けるのではないかと思うのです。

少年日目が学んだ円蔵坊も山川氏の言葉を借りれば、「真言宗よりも、天台宗に親しみ多い房号」(山川P86)です。日我の「日目上人御申状」にも「真言半学の天台宗也今偏に真言也」とあり、日我から見た日目師の時代=文永9年(1272)の走湯山は「真言半学の天台宗也」と真言が入った天台宗としていて、台密であったと認識されていました。そして日我が「申状見聞」を著した天文14年(1545)には、「今偏に真言也」と真言になっているとするのです。

大石寺・日有の「聞書捨遺」は上代からの所伝ではあるのでしょうが、全くの故なきものではなく、話の内容の大筋はそのとおりではないかと思われます。

尚、広蔵院日辰の「祖師伝・駿州富士山大石寺釈日目の伝」(永禄3年・1560著)には、「日興、蓮蔵坊に向って云く、汝山伏は法華誹謗無間の業なり」(富士宗学要集5巻P30)とあるのですが、円蔵坊が蓮蔵坊となり、式部僧都が蓮蔵坊に住したことになっています。また少年日目が日興上人の後を追うべく、深夜に坊を飛び出し駿河国で再会。そして「蓮蔵坊、児の在らざる事を思ふて、人をして駿河に追はしむ。駿河にて追ひ就いて児を取り還さんと云って、遂に刀劔を交へ矢を飛し戦ひ合へども、日興、日目を具して甲州に登るなり云云」(同)と、式部僧都の門人が日目師を取り戻すべく日興上人らと刃を交えたとし、「已上重須本門寺日出上人の談なり」(同)以上は北山本門寺9世・日出から聞いたものであると記録するのですが、これらは脚色性が強く史料としての信用性は著しく低いと思われます。

日目師と伊豆山住僧との問答も、「問答記録」(正平3年・貞和4年[1348]2月10日 慶俊〔日慶・日向国日睿の舎弟、日郷の弟子〕書写)に残されています。

伊豆山の玄海が「四教五時の惣別・一心三観の相即・自宗他宗を見・権実偏円を探るにぞ教は妙法の始・権法は実法の便りなり。其の執をば一往破ると云へども実相の理躰を開会して玄宗彼れ是れ得意て偏執を以て永く無間と定む。・・・」(富士宗学要集6・P10)と、「実相の理躰を開会」することにより「権法」は「実法」になるとしていますが、これは釈尊一代の教説を法華経に会入させる天台・台密の「開会の法門」を想起させるものがあります。このような思考法を玄海がどこで、誰より学んだものか、興味のあるところです。