開目抄・要文 4

投稿者:鬼滅の言

【第31章・二乗の守護無きを疑う】

されば事の心を案ずるに四十余年の経経のみとかれて法華八箇年の所説なくて御入滅ならせ給いたらましかば誰の人か此等の尊者をば供養し奉るべき現身に餓鬼道にこそ・をはすべけれ。

御書p.206 14行目〜16行目

法華経の行者あるならば此等の聖者は大火の中をすぎても大石の中を・とをりてもとぶらはせ給うべし、迦葉の入定もことにこそ・よれ、いかにと・なりぬるぞ・いぶかしとも申すばかりなし、後五百歳のあたらざるか広宣流布の妄語となるべきか日蓮が法華経の行者ならざるか

御書p.207 3行目〜6行目


【第32章・菩薩等について爾前無恩を明かす】

又諸大菩薩天人等のごときは爾前の経経にして記莂を・うるやうなれども水中の月を取らんと・するがごとく影を体とおもうがごとく・いろかたち・のみあつて実義もなし、又仏の御恩も深くて深からず

御書p.207 10行目〜11行目


【第33章・法華の深恩を明かす】

仏・御年・七十二の年・摩竭提国・霊鷲山と申す山にして無量義経を・とかせ給いしに四十余年の経経をあげて枝葉をば其の中におさめて四十余年・未顕真実と打消し給うは此なり、此の時こそ諸大菩薩・諸天人等はあはてて実義を請ぜんとは申せしか、無量義経にて実義とをぼしき事一言ありしかども・いまだまことなし

御書p.208 11行目〜13行目

法華経・方便品の略開三顕一の時・仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う

御書p.208 14行目〜15行目

舎利弗等・驚いて諸天・竜神・大菩薩等をもよをして諸天・竜神等・其の数恒沙の如し仏を求むる諸の菩薩大数八万有り・又諸の万億国の転輪聖王の至れる合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す等とは請ぜしなり

御書p.208 16行目〜18行目

此の文に具足の道を聞かんと欲すと申すは大経に云く「薩とは具足の義に名く」等云云
御書p.209 1行目〜2行目
天台の玄義の八に云く「薩とは梵語此に妙と翻ずるなり」等云云、

御書p.209 3行目〜4行目


【第34章・妙法蓮華経を釈す】

妙法蓮華経と申すは漢語なり、月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す

御書p.209 5行目〜6行目

又妙法蓮華経の上に南無の二字ををけり南無妙法蓮華経これなり

御書p.209 9行目〜10行目

十界に皆己界の仏界を顕す妙楽云く「尚仏果を具す、余果も亦然り」等云云、仏此れを答えて云く、「衆生をして仏知見を開か令めんと欲す」等云云、衆生と申すは舎利弗・衆生と申すは一闡提・衆生と申すは九法界・衆生無辺誓願度・此に満足す、「我本誓願を立つ一切の衆をして我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す我が昔の願ぜし所の如き今は已に満足しぬ」等云云。

御書p.209 12行目〜16行目


【第35章・法華深恩を明かす】

又今よりこそ諸大菩薩も梵帝・日月・四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ、されば宝塔品には此等の大菩薩を仏我が御弟子等とをぼすゆへに諫暁して云く「諸の大衆に告ぐ我が滅度の後・誰か能く此の経を護持し読誦する今仏前に於て自ら誓言を説け」とは・したたかに仰せ下せしか

御書p.210 ※「開目抄下」題号より1行目〜3行目

而れども霊山日浅くして夢のごとく・うつつならずありしに証前の宝塔の上に起後の宝塔あつて十方の諸仏・来集せる皆我が分身なりとなのらせ給い宝塔は虚空に釈迦・多宝坐を並べ日月の青天に並出せるが如し

御書p.210 ※「開目抄下」題号より5行目〜6行目

天台云く「分身既に多し当に知るべし成仏の久しきことを」等云云、大会のをどろきし意をかかれたり

御書p.211 3行目〜4行目


【第36章・地涌出現を明かす】

其の上に地涌千界の大菩薩・大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし

御書p.211 5行目〜6行目

此の千世界の大菩薩の中に四人の大聖まします所謂・上行・無辺行・浄行・安立行なり此の四人は虚空・霊山の諸菩薩等・眼もあはせ心もをよばず、華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も此の菩薩に対すれば翳眼のものの日輪を見るが如く海人が皇帝に向い奉るが如し、大公等の四聖の衆中にありしに・にたり商山の四皓が恵帝に仕えしにことならず、巍巍堂堂として尊高なり、釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし

御書p.211 8行目〜12行目

弥勒菩薩疑つて云く「無量千万億の大衆の諸の菩薩は昔より未だ曾て見ざる所なり是の諸の大威徳の精進の菩薩衆は誰か其の為に法を説いて教化して成就せる、誰に従つてか初めて発心し何れの仏法をか称揚せる、世尊我昔より来未だ曾つて是の事を見ず、願くは其の所従の国土の名号を説きたまえ、我常に諸国に遊べども未だ曾つて是の事を見ず、我れ此の衆の中に於て乃し一人をも識らず忽然に地より出でたり願くは其の因縁を説きたまえ」等云云

御書p.211 18行目〜御書p.212 4行目


【第37章・略開近顕遠を示す】

仏此の疑を答えて云く「阿逸多・汝等昔より未だ見ざる所の者は我是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提を得已つて是の諸の菩薩を教化し示導して其の心を調伏して道の意を発こさしめたり」等

御書p.212 8行目〜9行目

又云く「我伽耶城菩提樹下に於て坐して最正覚を成ずることを得て無上の法輪を転じ爾して乃ち之を教化して初めて道心を発さしむ今皆不退に住せり、乃至我久遠より来是等の衆を教化せり」等云云

御書p.212 9行目〜11行目

されば弥勒菩薩等疑つて云く「世尊・如来太子為りし時・釈の宮を出で伽耶城を去ること遠からずして道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得給えり、是より已来始めて四十余年を過ぎたり、世尊・云何ぞ此の少時に於て大いに仏事を作し給える」等云云

御書p.213 1行目〜3行目

されば仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどうじ一切衆生は疑網にかかるべし、寿量の一品の大切なるこれなり

御書p.213 11行目〜12行目


【第38章・広開近顕遠を示す】

其の後・仏・寿量品を説いて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得給えりと謂えり」等云云、此の経文は始め寂滅道場より終り法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり、「然るに善男子・我れ実に成仏してより已来・無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、此の文は華厳経の三処の「始成正覚」阿含経に云く「初成」浄名経の「始坐仏樹」大集経に云く「始十六年」大日経の「我昔坐道場」等・仁王経の「二十九年」無量義経の「我先道場」法華経の方便品に云く「我始坐道場」等を一言に大虚妄なりと・やぶるもんなり

御書p.213 13行目〜18行目


【第39章・脱益の三徳を明かす】

此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す

御書p.214 1行目〜2行目

諸仏・釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の劫初より・このかたの日月・衆星等・教主釈尊の御弟子にあらずや

御書p.214 16行目〜18行目


【第40章・本尊に迷うを呵責し正しく下種の父を明かす】

しかるを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり

御書p.215 1行目

倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり

御書p.215 1行目

法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす

御書p.215 3行目

華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那・大日等を本尊と定む

御書p.215 3行目〜4行目

浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり

御書p.215 4行目〜5行目

禅宗は下賤の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり

御書p.215 5行目〜6行目

妙楽云く「一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」等云云

御書p.215 7行目〜9行目

妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、

御書p.215 9行目〜10行目