安房国清澄寺に関する一考 15

【 光日房御書・建治2年3月 】

同じき四月八日に平左衛門尉に見参す。本よりご(期)せし事なれば、日本国のほろ(滅)びんを助けんがために、三度いさ(諌)めんに御用ひなくば、山林にまじ(交)わるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいで(出)ぬ。

【 法蓮抄・建治元年4月 】

又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古国は何比(いつごろ)かよ(寄)せ候べきと問ふに、答へて云はく、経文は月日をさ(指)ゝず、但し天眼(てんげん)のいか(瞋)り頻(しき)りなり、今年をばす(過)ぐべからずと申したりき。

是等は如何にとして知るべしと人疑ふべし。予不肖(ふしょう)の身なれども、法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨(あだ)む間、法華経の座にて守護せんと誓ひをなせる地神いか(瞋)りをなして身をふ(振)るひ、天神身より光を出だして此の国をおど(嚇)す。いかに諫むれども用ひざれば、結句(けっく)は人の身に入って自界叛逆せしめ、他国より責むべし。

【 種種御振舞御書・建治元年[1275]または建治2年[1276] 】

(文永11年)三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきにはにるべくもなく威儀を和らげてただしくする上或る入道は念仏をとふ、或る俗は真言をとふ、或る人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ一一に経文を引いて申しぬ。

平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なり、それにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし

中略

同(文永11年)四月十日より阿弥陀堂法印に仰せ付けられて雨の御いのりあり、此の法印は東寺第一の智人・をむろ(御室)等の御師・弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり。

(4月11日)それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿(こうどの)御感のあまりに、金三十両、むま(馬)、やうやうの御ひ(引)きで(出)物ありときこふ。

(4月11日~12日)鎌倉中の上下万人手をたた(叩)き口をすくめてわら(笑)うやう(様)は、日蓮ひが(僻)法門申してすでに頚をき(切)られんとせしがとかうしてゆりたらば、さではなくして念仏禅をそし(謗)るのみならず、真言の密教なんどをもそし(謗)るゆへ(故)にかかる法のしるし(験)めでたしとののし(罵)りしかば、日蓮が弟子等けうさめ(興醒)てこれは御あら義と申せし程に日蓮が申すやうはしば(暫)しまて、弘法大師の悪義まことにて国の御いの(祈)りとなるべくば隠岐法皇こそいくさ(戦)にか(勝)ち給はめ

中略

いゐもあはせず大風吹き来たる(4月12日)。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を、或は天に吹きのぼせ、或は地に吹きいれ、そらには大なる光物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふ(吹)きころ(殺)し、牛馬をゝ(多)くたふ(倒)れぬ。悪風なれども、秋は時なればなをゆる(許)すかたもあり。此(これ)は夏四月なり、其の上、日本国にはふかず、但関東八箇国なり。八箇国にも武蔵・相模の両国なり。両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら(鎌倉)、かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり。たゞ事ともみへず。ひとへにこのいの(祈)りのゆへ(故)にやとをぼ(覚)へて、わらひ口すくめせし人々も、けふ(興)さめてありし上、我が弟子どもゝあら不思議やと舌をふるう。

本よりご(期)せし事なれば三度国をいさ(諫)めんにもち(用)ゐずば国をさ(去)るべしと、されば同五月十二日にかまくら(鎌倉)をいで(出)て此の山(身延山)に入る、

同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶ(破)られて少弐入道大友等ききに(先逃)げにに(逃)げ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、又今度よ(寄)せく(来)るならばいかにも此の国よはよは(弱弱)と見ゆるなり。

仁王経には「聖人去る時は七難必ず起る」等云云、

最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇わん」等云云、仏説まことならば此の国に一定悪人のあるを国主たつ(尊)とませ給いて善人をあだ(仇)ませ給うにや、

大集経に云く「日月明を現ぜず四方皆亢旱す是くの如く不善業の悪王・悪比丘・我が正法を毀壊せん」云云、

仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く、其の王別えずして此の語を信聴せん是を破仏法・破国の因縁と為す」等云云、

法華経に云く「濁世の悪比丘」等云云、

経文まことならば此の国に一定悪比丘のあるなり、夫れ宝山には曲林をき(伐)る大海には死骸をとど(留)めず、仏法の大海一乗の宝山には五逆の瓦礫・四重の濁水をば入るれども誹謗の死骸と一闡提の曲林をばをさめざるなり、

されば仏法を習わん人後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし。皆人をぼするやうは、いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用ゆべきと、他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房・清澄の西堯房・道義房・かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。

文永11年3月26日、佐渡より鎌倉に戻った日蓮大聖人は平左衛門尉と対面し、真言師による異国調伏では日本は戦に負けてしまう=滅びると諫めます。4月10日、幕府は加賀法印定清=阿弥陀堂法印に祈雨の祈祷を命じ、翌11日には雨が降り出し、北条時宗は金三十両、馬等、様々な引き出物を与えます。

「阿弥陀堂法印の祈雨の功である」と、鎌倉の人々は幕府より褒美を与えられた法印を褒め称え日蓮をあざ笑います。日蓮一門の弟子達も「いかなることか」と動揺しますが、大聖人が真言の悪現証、真言師の祈雨について説明していたところ鎌倉は突然の大風に襲われ、その凄まじさ、被害の甚大さにあざ笑っていた人々は興醒め、弟子達は「不思議なことである」と驚きます。

大聖人は5月12日に鎌倉を発って身延山に入りますが、以下、「種種御振舞御書」の記述を確認してみましょう。

「種種御振舞御書」では、身延入山後に蒙古が攻め寄せた(文永の役)が、今度こそは日本は危ういとして経文を引用記述。

次に「されば仏法を習わん人、後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし」として、「皆人をぼするやうは、いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用ゆべきと」(同)と「清澄寺大衆中」と同じく、当時の人々が日蓮大聖人に対して抱いた感情、不信を「日蓮のように弘法大師・慈覚大師ほどの人物を謗る者の言うことをどうして用いることができようか」と表現しています。

このような疑難に対しては、「他人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房・清澄の西堯房・道義房・かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。」(同)と、他所のことはさておいて、故郷の安房国の人々は空海・円仁を批判する日蓮のいうことを信ずるべきであり、その現証として、東密・台密であったであろう清澄寺及び周辺の僧の臨終がよくないものだったことを知るべきである、としています。

ここからは、清澄寺と周辺の僧の信仰、崇敬する人物が読み取れるのではないでしょうか。即ち空海と円仁を批判する日蓮大聖人の説示を用いない悪現証として、清澄寺と周辺に居住する僧の名が列挙されたということは、彼らは空海と円仁を崇めていたと理解でき、この記述も清澄寺内の東密と台密の法脈を探る際の史料になるといえるでしょう。