安房国清澄寺に関する一考 6

清澄寺大衆中 ③

本文

其上、禅宗・浄土宗なんどと申すは又いうばかりなき僻見の者なり。此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほう(報)ぜんがために、建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申すもの並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其後二十余年が間退転なく申す。

或は所を追ひ出され、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を。今は見る日蓮が刀剣に当る事を。日本国の有智無智上下万人の云く 日蓮法師は古の論師・人師・大師・先徳にすぐるべからずと。日蓮この不審をはらさんがために、正嘉・文永の大地震大長星を見て勘へて云く、我朝に二つの大難あるべし。所謂自界叛逆難・他国侵逼難也。自界は鎌倉に権の大夫殿御子孫どしうち(同士打)出来すべし。他国侵逼難は四方よりあるべし。其中に西よりつよくせむべし。是偏に仏法が一国挙(こぞり)て邪まなるゆへに、梵天・帝釈の他国に仰せつけてせめらるるなるべし。日蓮をだに用ひぬ程ならば、将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍百千万人ありとも叶ふべからず。これまことならずば真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候き。

就中、清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にもをもひをとさせ給はば、今生には貧窮の乞者とならせ給ひ、後生には無間地獄に堕ちさせ給ふべし。故いかんとなれば、東條左衛門景信が悪人として清澄のかいしゝ(飼鹿)等をかり(狩)とり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうどとなり、清澄・二間の二箇の寺、東條が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやう(精誠)の起請(きしょう)をかいて、日蓮が御本尊の手にゆい(結)つけていのりて、一年が内に両寺は東條が手をはなれ候しなり。此事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。大衆も日蓮を心へずにをもはれん人々は、天にすてられたてまつらざるべしや。かう申せば愚痴の者は我をのろう(呪咀)と申すべし。後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申すなり。

領家の尼ごぜんは女人なり、愚痴なれば人々のいひをど(嚇)せばさこそとましまし候らめ。されども恩をしらぬ人となりて、後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ、不便に候へども、又一つには日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり候へ。

意訳

その上、禅宗や浄土宗などはまた、いうほどにもない誤った教えによる者である。このようなことを言えば、必ず日蓮の身命に及ぶような事態となることは分かってはいたが、幼少の時に大宝珠を授けてくださった虚空蔵菩薩の御恩を報ずるため、建長5年4月28日、安房の国東条の郷・清澄寺の道善之房・持仏堂の南面において、浄円房という者をはじめ少しばかりの大衆に日蓮の法門を言いはじめ、その後20年余も退転せずに言い続けてきたのである。

この間、あるいは所を追い出され、あるいは流罪されてきた。昔は不軽菩薩が杖木瓦石の難にあったと聞くが、今は日蓮が刀剣の難に当たることを見るのである。日本国の有智・無智・上下万民はいう、日蓮法師は往古の論師・人師・・大師・先徳に勝れることはないと。日蓮はこのような不審を晴らすために、正嘉元年の大地震、文永元年の大彗星を見て考え言ったのである。「我が国に二つの大難があるであろう。それは自界叛逆難と他国侵逼難である。自界叛逆難は鎌倉に北条義時(権の大夫殿)の子孫の同士打ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方から起こるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これ偏に、仏法が一国を挙げて邪であるために、大梵天王・帝釈天王が他国に言いつけて攻められるのである。日蓮を用いないならば、平将門、藤原純友、安倍貞任、藤原利仁、坂上田村麻呂のような名将が百千万人いたところで叶わないのである。これらが真でないならば、真言と念仏等の誤った考えを信じることにしよう」といい、広めてきたのだ。

中でも清澄山の大衆は、日蓮のことを父母にも三宝にも劣ると思われるなら、今生には貧しく生活に窮する乞食となり、後生には無間地獄へと堕ちることであろう。なぜかならば、東條左衛門景信が悪人の本性を出し、清澄で飼っている鹿等を狩り取ってしまい、山内各坊の法師等を念仏者の家来とし、念仏を唱えさせようと謀った時に、日蓮は東條景信のやり方に反対して領家の味方になって、「清澄・二間の二箇寺が東条方についてしまうならば日蓮は法華経を捨てよう」と心より誓って起請文を書き、日蓮が御本尊の手に結び付けて祈り続け、一年の内に両寺は東條の手を離れることができたのである。清澄・二間の寺が東条方についてしまうような事態を、虚空蔵菩薩がどうして見放されることがあろうか。清澄寺の大衆も日蓮のいうことを信じない人々は、諸天に捨てられるであろうか。こう言えば愚かで無知なる者は、「日蓮は私のことを呪詛(じゅそ)している」と言うだろうが、後生に無間地獄に堕ちるのは憐れむべきことなので申しているのである。

領家の尼御前は女性であり愚痴の人なので、人々が言い脅かすと「そうか」と頷いてしまうのであろう。しかしながら、恩を知らない人となり、後生に悪道に堕ちてしまうのは憐れむべきことであるし、また一つには日蓮の父母等がお世話になった人なので、なんとしても後生を助け奉りたいと祈っている。