産湯相承物語(17)

17・出雲関連記述、本地垂迹


 日教本は、「久遠下種の南無妙法蓮華経 日蓮なり」として、久遠下種の法と日蓮大聖人の同一性に踏み出しているように見えるが、当該箇所について保田本は日教本の「日蓮なり」と一言だけの部分を「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は我国に天下り始めし国は出雲なり」との書き出しで始まる天照太神の出雲降臨神話と本地垂迹の関係の説明として大幅に書換える一方で、久遠下種の法と日蓮大聖人の一体性については触れず、その代わりに、「我カ釈尊 法華経を説き顕し給ひしより已来 十羅刹女と号す、十羅刹と天照太神と釈尊と日蓮とは 一体の異名、本地垂迹の利益広大なり」として、釈尊、十羅刹女、天照太神、日蓮大聖人が一体であり、本地垂迹の関係にあるとする長文を挿入している。


 法華守護の諸天善神として思い起こされるのは「鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり(略)十羅刹の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり」(全p1124) との経王殿御返事の一節だが、保田本では十羅刹を法華経守護の善神の地位からさらに進めて、天照太神の本地として位置づけ説明している。


 その内容は、(本)釈迦 →(迹)十羅刹女、(本)十羅刹 →(迹)天照太神、(本)釈迦 →(迹)日蓮という本地垂迹の関係であり、もう一つの関係として、釈迦 ≡  十羅刹 ≡ 天照太神 ≡ 日蓮という、すべてが一体の関係にあるとするとしている。(注1)


 それでも、保田本が本地として位置づけているのは釈迦であり、また十羅刹女であり、天照太神も日蓮大聖人も迹として位置づけられ、少なくとも日蓮大聖人を釈迦以上の存在とは表現していない。


 このため、日教本が久遠下種の法と日蓮大聖人の同一性に踏み出していることはむしろ保田本よりも日蓮本仏論に近いとも考えられるし、御実名縁起が「勝釈迦佛」としていることは、特記すべきことではないかとさえ思われる。


 なお、保田本が出雲降臨の天照太神と十羅刹女について記述していることから、出雲の日御碕社に十羅刹女が祀られた時期を検討し、保田本の成立をその時代とする見解 が東佑介氏によって示されており、産湯相承の成立時期を考える上で決定的な視点となるようにも思われるが、出雲関連記述は、御実名縁起にも日教本にも見られない。


御実名縁起は、富士・日蓮一体論ともいうべき内容について「是ハ不審ナル故ニ略之也」と断り書きしているが、出雲関連の記述については何ら触れられておらず、元々の存在を窺うことはできない。
 このため、御実名縁起と富士・日蓮一体論を合わせた内容の原典の存在が推定されるところ、日教本は保田本から出雲関連記述を除いた内容となっていることから、産湯相承の元々の伝承には出雲関連記述がなかったことが考えられる。


  このような推測を前提とすれば、出雲関連記述についての時代考証は保田本にのみ当てはまるものであって、産湯相承のその他の記事については、一律に後代の創作と見る必要はないと考えられる。


 たただし、釈迦と天照太神と日蓮大聖人の一体説については、『本尊三度相伝』 も「左れば釈迦上行天照太神、日蓮聖人只一躰の習にして釈迦幼少の御名は日種と、天照幼少の御名は日神と云ふ最も謂れあることなり、其れ天照太神と云ふときんば法華本迹の躰にて御座すなり」(注2)としており、このような考え方自体は、日蓮大聖人滅後の早い段階から存在していたことが窺がえる。


 なお、出雲関連の記述が日蓮大聖人の真蹟遺文と内容的に整合性がないことは多くの論を俟たないであろうし、天照太神が悪神の須佐之男を出雲に流した とする『本尊三度相伝』の記述(注3)と比べても、富士門流の他の相伝とも相違している。


 しかしながら、保田本の格調高い表現からは真摯な姿勢を感じ取ることができることから、書写した人間にとって特別に大切と考える内容を書き加えたこと考えることは許されよう。また、日教が出雲の出身であり、後に保田に移っていることを考えれば、あるいは日教の周辺で、日教本の内容に出雲関連記述が書き加えられ、保田本が成立したと推測することに困難はないと考える。

(注1)「≡」は、合同、常に等しいを意味する論理記号で、便宜的に使用した。


(注2、注3)富士宗学要集1巻p39~p40。なお、『本尊三度相伝』の成立年代ははっきりしないが、日蓮大聖人御入滅後69年目頃に編纂された可能性が指摘されている。

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